ツクツクボウシとヒグラシ2016/08/21 09:18

暦法新書』(いわゆる宝暦暦)の七十二候・寒蝉鳴
数日前、今年初めて、ツクツクボウシの声を聞いた。そして一昨日、2週間ぶりに木の多い三鷹の天文台に出勤したところ、彼らの声が、そこかしこから聞こえるようになっていた。まさに、七十二候の「寒蝉鳴」だなと思った。

太陽の位置により1年を24で区切る季節の指標を二十四節気と言い、それをさらに三分割するものを七十二候という。地球の公転に従うものなので、毎年の変動は閏年のずれぐらいの、一定した指標だ。大暑、立秋、処暑などの二十四節気は、理科年表にも出ていて、日常的にも使われる。いっぽう、七十二候は、いまや歳時記好きぐらいしか気にしないものになっている。

二十四節気のひとつである立秋は8月7日頃で、処暑が23日頃である。そして、立秋から処暑までの3分割の2番目(次候)を、七十二候で「寒蝉鳴」という。これは8月13日あたりで、秋の蝉が鳴くという意味である。ぴったりじゃないか、と思ったわけである。

しかし、である。寒蝉鳴は「ひぐらしなく」と訓ませることが多い。これは変な話なのだ。

中国の七十二候を基にして、本朝七十二候がつくられたのは、17世紀末頃、渋川春海によってだ。彼の居住地である江戸において、立秋過ぎから鳴き始める蝉はツクツクボウシである(わたしには、現代の東京しか分からないが)。ヒグラシ(カナカナ)は、そもそも平野部には少ない。そしてなにより、梅雨明け前から鳴く蝉である。当時から気候や生息環境は変わっているが、それでも、寒蝉はツクツクボウシと考えたほうが合理的だ。ラフカディオ・ハーンが『Cicada』(蝉)というエッセイのなかで、「死者の祭日のすぐ後から、ツクツクボウシは歌い始める」と書いた通りである。(ただし、七十二候と違って、太陰太陽暦7月15日である盂蘭盆会は、太陽歴換算で毎年の変動がある:例えば今年は8月17日で来年は9月5日である)

ツクツクボウシもヒグラシと総称するということも考えられなくはないが、ヒグラシは早朝と夕暮れの薄明の時に鳴くのでその名があるので、無理がある。

ということは前から思っていたのだが、ツクツクボウシの声を聞いたその日の昼休み、日本一の暦関係の蔵書(国立天文台図書室)が目の前にあるということに気がついて、ざっと調べてみた。

渋川春海による『貞享暦』(1685)においては、「寒蝉鳴」は、処暑の初候(8月23日頃)であった。そして、後の『暦法新書』(いわゆる宝暦暦:写真)(1755)において、「寒蝉鳴」は、いまに連なる立秋の次候(8月13日頃)に移されていた。移動はあるものの、その違いは大きくない。興味深いのは、『貞享暦』と『暦法新書』の原本に、振仮名がないことであった。考えてみれば、当時の漢文の公文書に振仮名があるほうが不思議だ。すなわち、「寒蝉鳴」は、「カンセンナク」とでも読むもので、ヒグラシと特定できないものである。予想通りであった。ところが、明治期の『略本暦』になると、「寒蝉鳴」のふりがなに「ヒグラシナク」とある。「誤解」の根は、けっこう古そうである。

ちなみに、和暦のもとになった中国の七十二候では、「寒蝉鳴」は、立秋の末候(8月18日頃)である(『天文の辞典』平凡社 )。ツクツクボウシもヒグラシも大陸にも分布しているが、彼の地でも秋に鳴き始めるのは、ツクツクボウシ(蜺)のようなので、そこでも寒蝉はツクツクボウシと見るべきである。

ヒグラシの哀しげな鳴き声、夏至の頃から鳴くが秋までも鳴くといったことが、混乱を生んだのかもしれない。ツクツクボウシよりヒグラシのほうが詩的な声音(?)である、というような話かもしれない。ツクツクボウシは、初秋の蝉ではあるが、その鳴きかたは元気発剌で、鳴き終わりは、アニメーションキャラクターのウッディ・ウッドペーカーみたいで、晩夏や初秋の哀愁というより、残暑を象徴する趣きが強い。しかし、というか、むしろそれゆえ、以下のような句は、岩ならぬこころに染みいる名句になっている。

また微熱つくつく法師もう黙れ
   川端茅舎

鳴き立ててつくつく法師死ぬる日ぞ
   漱石

よし分かった君はつくつく法師である
   池田澄子

なお、今回webを検索して知ったのだが、八丈島には蝉はたった一種、ツクツクボウシしかいないそうである。彼らは、本土と違って、夏の初めから鳴いているという。

ヒグラシを詠じたものなら、山口誓子の句と、山村暮鳥の詩が好きだ。
長時間ゐる山中にかなかなかな
   山口誓子

誓子よむ切れ字のかながなかなかかな

山村暮鳥のものは、以下である。(『雲』山村暮鳥 より)
ある時

またひぐらし(虫偏に車)のなく頃となつた
かな かな
かな かな
どこかに
いい國があるんだ

夏の終わり2016/08/22 23:00

台風が来て、夏が終わった感じが強い。

◆シン・ゴジラ
・「例のネタ」自体より、エンドロールの三谷純さんの名前に驚いた。
・丸子橋、多摩川浅間神社、そして、吞川。東京西南部育ちとして親しみある地名だった。
・庵野秀明さんの長編作品は、じつは初めて観た。
・これが深読みしたくなる作風かと感心したが、都合のよいメッセージを受信してしまうひとも多そうだ。

◆穂高明さん
面識を得て、『月のうた』『夜明けのカノープス』など、作品を次々に読んだ。理科系ネタの隠し味もよいが、「友がみなわれより偉く見え」てしまう気分のときに寄り添ってくれるような、屈折をかかえていた登場人物たちの造形が一番の持ち味だ。

◆『The Man Who Knew Infinity』
10月に日本でも公開される、ラマヌジャンの伝記映画『奇蹟がくれた数式』(The Man Who Knew Infinity)が、楽しみだ。『数学セミナー9月号』の表紙のエッセイ(熊原啓)によると、ラマヌジャンのタクシー数こと、1729のエピソードもでてくるらしい。

◆1729
1729が出てくるといえば、数学少年少女を題材にしたライトノベル『青の数学』(王城夕紀)もそうだった。ん?というところもあったけれど、数学少年少女が、野球少年などと並列されていて、奇人変人類型ではないところがとてもよかった。「だって人間の姿なんて美しくないよ。正多面体の方が美しい」と言う少年は、やや奇人変人クリシェだが、一芸のある少年、というか、少年というのは、そんなことを言うような気もする。

◆第22回折紙探偵団コンベンション(8/12-14)
年に一度のコンベンション。「キーウィ鳥」と「立方八面体骨格」の講習、「折り目による円錐曲線」という講義をした。また、吉野一生さん没後20年展示で、彼の「猪」を折った。吉野一生さん作品では、宮本宙也さんが『をる』に載った「鵺」を再現していたのに感心した。

今年の目玉は三浦公亮先生直伝のミウラ折り。国際大学折紙連盟の展示も充実し、ゲストのロベルト・モラッシさんとミシェル・ファンさんも対照的で面白かった。折り紙の世界は広がっているなあ、と。スタッフのみなさま、お疲れさまでした。

オークションで落札した中村和也さん提供の「折鶴」の掛け軸(中国の大道芸みやげ)は、机の前にかけた。
掛け軸「折鶴」

◆算額最中
算額最中
中村和也さんは、コンベンションのさいに、奈良の和菓子屋・たばやの「算額最中」も買ってきてくれた。店主の先祖が奉納した算額の問題の図がかたどられた最中で、3月の関西コンベンションで中村さんに会ったさい、「これ知ってる? たぶん、中村さんの家から近いけれど」と、話題にしたものである。

図の外側の円の直径を16、内接する大きい円の直径を9.6としたとき、残りの円の直径を求めよという問題だった。デカルトの円定理を使って自分でも解いてみた。補助線を使った初等幾何的な解きかたもすこし考えたのだが、そちらはどうにも糸口が見つからない。

◆『数理科学』の悪魔
コンベンションの懇親会で。『本の雑誌』9月号で、円城塔さんが「人生を変える数学パズル」と題して、『完全版 マーティン・ガードナー数学ゲーム全集』を取り上げていましたね、という話を、上原隆平さん飯野玲さんらとした。上原さんと飯野さんは、同書の訳者と編集者である。

円城さんの書評の2ページ前では、若島正さんが古い安野光雅さんの表紙版の『マックスウェルの悪魔』(都築卓司)を取り上げていた。この絵は、わたしの「悪魔」のモチーフになった絵である。『マックスウェルの悪魔』の出版の何年か前に、雑誌『数理科学』の表紙に載ったのが初出である。

この件に関して、シンクロニシティーじみた話はまだ続く。天文台の図書室に『数理科学』のバックナンバーも揃っていることに気がついて、『数理科学』の「悪魔」はいつのものかなと、調べたばかりだったのだ(写真)。
『数理科学』の悪魔

そして、先週である。長野・山梨に戻るさい、小海町高原美術館に寄って、開催中だった安野光雅展を観てきた。そこになんと、「悪魔」のオリジナルがあったのだ。驚いた。なお、『数理科学』の表紙が一冊の本(『空想工房の絵本』 山川出版社)になっていることは初めて知った。40年以上前のものだが、どれも新鮮な発見がある。悪魔の前々号の絵が、デューラーの『メレンコリア』のパロディであることも知った。『メレンコリア』は、9月に出るわたしの新刊『折る幾何学』でも重要なモチーフになっている。

ということで、新刊の話である。数日前に、『折る幾何学 - 約60のちょっと変わった折り紙』(9月9日発売予定。日本評論社)を校了した。