丸石神その172008/05/01 14:19

ルーヴル美術館
 ルーヴル美術館前に、美の殿堂を密かに守る丸石神が! なんて、まあ、ようするに、ただ石が丸いというだけだが、隣接する他の広場にはなかったものなので、四角い建物と三角のピラミッドときたので丸い石、というデザインコンセプトではないかと想像する。なお、ピラミッドはギザのピラミッドの特殊な比率とは異なっていて、面は正三角形だった。(実測した)

FIAP2008/05/04 15:28

FIAP
 パリの中心部にあるFIAP(若者のための国際交流宿泊施設みたいなもの)という施設で、折り紙の展示が1ヶ月ほど行われている。今回のMFPP(フランス折紙協会)のコンベンションとは、直接の関係はない。誰がプロデュースしたのか、MFPP会長のジャン=クロード・ヴァンズットさんらもよくは知らなかった。写真は、ジョアゼルさんの巨大なサイとカバ、川畑さんのステゴサウルス、ステゴサウルスの横には、写真ではわからないけれど、神谷さんのエンシェントドラゴンなど。他にも吉澤さんの作品など多数。
 以前、ジョアゼルさんのサイの基本構造はわたしの作品のものだと聞いたことがあるが、ここまで造り込まれていると別のもので、わからない。

異国の客2008/05/07 12:58

MFPP
 平均よりは海外渡航の機会は多いとは思うが、旅馴れているとはとても言えないので(折り紙界で言えば、布施知子さんと山口真さんはちょっと比類がない)海外旅行は気合いがはいる。ましてや初めての土地となると、それが大きい。そして、その気合いというのは、わたしの場合、読む本に反映する。関心をとりあえず読書で満たすのは、先日まで『ダライ・ラマ自伝』を読んでいたりと、旅行に限らず、身に付いた癖みたいなものではある。今回は、渡航前に永井荷風の『ふらんす物語』を読み、旅先では、池澤夏樹さんの『異国の客』などを読んだ。本の選択は、しゃらくさいと言えばしゃらくさいが、箇条書き的ではない「文学的な」情報を、じっさいの経験にゆるやかにリンクさせるのは、ディレッタント道(?)の基本である。
 池澤夏樹さんと言えば、彼も、読書というのは自慢するようなものではなく、悪癖みたいなものだと書いている。そして、ここでも「ゆるやかにリンク」するのだが、先日読んだ氏の新刊『星に降る雪/修道院』の『星に降る雪』の主人公の職業が、わたしにきわめて似ているので驚いた。わたしは、この主人公と野辺山宇宙電波観測所で職場を同じにしていたことになる。池澤さんには、1987年の自動車事故で亡くなられた、星間分子研究のリーダーだった鈴木博子さんを彷彿とさせる火山学者を主人公とする『真昼のプリニウス』という小説があるなど、「こちら方面」の話が多い。20年ぐらい前、彼が野辺山に取材に来たときのことも覚えている。計算機室には文学小僧はわたしひとりだったので、「芥川賞作家です! あの福永武彦さんの息子ですよ。ええっ、福永武彦さんも知らない? 加田伶太郎名義でミステリも書いてます。モスラの原作も書いています。なんでみんな知らないんだぁ」と、やきもきした記憶がある。
 追記5/10:当時のわたしは(いまも?)典型的なミーハーだ。しかも、池澤さんの才能を福永さんで計るなど、失礼である。

 さて。MFPPのコンベンションでは、いろいろと収穫があった。思いがけない収穫は、10年以上ぶりに会った桃谷好英・澄子さんといろいろ話をしたこと。
 写真は、講習後に悪魔の面をかぶっておどける青年。後ろの「一番」のTシャツは、会長のジャン=クロードさん。冗談連発(ほとんどわからなかったけれど)で宴会を盛り上げるアランさんも写っている。
 どうかなーと思ったので、講習では使わなかったけれど、非公式講習で思いの外ウケたのが、写真右の「エッフェルたとう」だ。フランス語でも、La tour Eiffelならぬ、Ta tour Eiffelでちゃんとダジャレになると、お墨付きをもらった。なお、Tatou(畳紙)という語は、あっちでも、折紙者ならけっこう知っている。
 同時期に開催されていた折紙探偵団関西コンベンションに参加できなかったのは残念だった。

伏見康治先生ご逝去2008/05/10 11:02

伏見康治先生が亡くなられた。
今朝、友人からもらったメールににあった「鼓舞された」という言葉がほんとうに相応しい。自然の摂理が誰にもひとしなみに訪れるのは理屈だが、先生はいつまでも元気でいるような気がしていた。

幾何学的形態と構成主義2008/05/11 00:26

パリ-CDG
 パリでは、美術館を数館観て歩いたが、ポンピドゥーセンターにあったアントワーヌ・ペヴスナーの彫刻作品が、わたしの好みにドンピシャだった。どこかで観たことはあるように思うのだが、まとまった数を観たのは初めてだし、名前として記憶されていなかった。(作品は、例えばここ
 ペヴスナーはロシア生まれでフランスで活動した、いわゆるロシア構成主義の彫刻家である。付け焼き刃の知識で教科書的に言えば、ロシア構成主義というのは、幾何学的形態と、具体的なモデルのなさ、そして、絵画よりも彫刻において活動的だった美術運動である。
 話は跳ぶようだが、幾何学的形態と言えば、パリとCDG空港を結ぶ路線の車両内のポール(写真)が面白かった。途中で3本に分かれているのである(天井ではまた1本になる)。パリジャンにとっては当たり前、そうでないひとも感激したりはしないだろうが、これは、幾何学と機能が融合した優れたデザインである。むろん、ここで重要なのは機能だが、こうしたかたちから、機能、または対象性(≠対称性)を拭い去ると構成主義彫刻になるのかもしれない。まあ、車両のポールは単純すぎるけれど、こうした幾何学的形態からさらに素材を拭い去ると数学やパズルになる。そこまで抽象化しても、「美」はある。むしろ際立つのではないかと思うことがある。アントワーヌ・ペヴスナーや堀内正和さんの彫刻はそれに近い。
 一般に幾何学的といわれる美術であっても、たとえば、パウル・クレーの作品は、色彩や素材なくして語れない。クレーの作品の魅力が、ある種の隠れた論理性や幾何学性にあるのはたしかだとしても、素材感とゆらぎ、微妙な言い方だが「手作り感」は不可欠である。美術の主流はそういうものだとも思う。
 だが、わたしがほんとうに好きなものは、色彩はともかく、素材までも捨象・抽象化することが可能な作品なのかもしれないと思うことがある。わたしは、いわゆる芸術の美しさよりパズルの美しさに惹かれることがある。詩的に言えば、目を閉じて観る作品と言えなくもない。ものは必要ないのである。数式のような数学的風景を一番美しいと思うのがわたしの性向なのかもしれない。ただし、それは数学の才能がありさえすればということなのだが、残念ながらわたしにはそんな数学の才能はない。そうしたものにわずかに触れた、と思うことがあるだけである。
 …また小難しい話を書いてしまった。

長野08.04.262008/05/16 12:43

長野08.04.26
 先日撮った写真を見ていたら、4月26日の長野駅前の写真に「信州おりがみ交流会」の文字があることを発見した。ある種の歴史の写真として載せておこう。