開始2007/07/06 12:49

折り紙とかたちの話題を中心にするつもりですが、日常や仕事(天文関連)、阪神タイガース、折り紙以外の読書などについても、たまに書くかも。

ドーキンス氏の折り紙2007/07/06 12:58

 『神は妄想である—宗教との決別 』(リチャード・ドーキンス著 垂水雄二訳 2007/05)に、折り紙がミーム(文化的な遺伝子)の例として取り上げられていた。ドーキンス氏は、以前、同じ内容を、『ミーム・マシンとしての私』(スーザン・ブラックモア著 垂水雄二訳 2000/07)の序文でも扱っていた。彼にとって、折り紙は、最も典型的なミームの例なのだろう。
 話のポイントは、折り紙(具体的には「中国のジャンク」というモデル)が、単純な手順の逐次的な積み重ねで成り立っていて、情報としてデジタル化されており、しかも、その手順に「自己正常化」が組み込まれているということである。ミームを説明する文脈に沿った例として、まさにぴったりである。
 しかし、折り紙者としては、注釈を付け加えたくなることもあった。折り紙造形はつねに順序の決まった手順によってつくられるのではない、ということである。じっさい、折り紙の手順は入れ換えも可能である。手順をまったく意に介さないことさえある。たとえば、折り紙創作家には、次のようなひとも多いはずだ。
 自分が創作した作品はいつでも折ることができるが、その手順は覚えておらず、というか、考えてもおらず、展開図(作品を展げたときについている折り目)という全体構造で覚えている、というひとだ。まあ、そうした作品は、そもそもミームの例になりにくいけれど。
 伝承作品においても、それが淘汰を経て伝わっている理由は、手順の明快さにのみあるのではない。それは、(手順とも密接に関係するが)構造の明快さにもある。折り紙の情報伝達において、「自己正常化」がなされるのはなぜか。手順を誤った場合にそれを改めることが可能なのは、構造の明快さというゴールがはっきりしていて、それぞれの手順がそうした構造に奉仕するものとなっているから、でもある。