年末2019/12/30 08:49

NHK-Eテレ、12/31 17:00-17:30。

◆クリスマス
何年かぶりに、『素晴らしき哉、人生!』(1946、フランク・キャプラ監督)を、クリスマス当日に観るという、いかにもなことをした。

同作の、自由意志、必然と偶然、決定論といったモチーフは、最近読んだテッド・チャンさんの諸作のテーマでもある。そういえば、チャンさんには、前著だけれど、天使がでてくる話もあった。

 「誰の人生も他の大勢の人生に関係していて、誰かが欠けるとひどい穴があくんだよ」 (二級天使クラレンス)
 "Each man’s life touches so many other lives, and when he isn’t around he leaves an awful hole, doesn't he?" (Angel Second Class Clarence)

◆12/26日食
日食12-26
日食。野辺山の電波ヘリオグラフでは、曇っていても観測できるのであった。

◆12/28釜飯
上信越自動車道の横川サービスエリアで釜飯を食べるという、いかにもなことをした。包装の紙が正方形だったので、ねずみを折ると、峠と元祖の文字がよい具合に出た。
横川の釜飯

クリスマス飾りなど2019/12/21 14:35

◆クリスマス飾り
クリスマス飾り
クリスマスツリーのエンブレムのお仲間に、星、キャンドル、ジンジャークッキー人形をつくってみた。それぞれ7.5cmの正方形で折って、15cmの正方形の上に並べたら、コージーなキルト感がでた。

◆手紙を飛ばす
『アナと雪の女王2』を観たひとが、手紙を図のように折って飛ばすシーンがあったと教えてくれた。ファンタジーの中にでてくる折り紙は、ときに魔法的である。
手紙を飛ばす

◆神保町駅
神保町駅
随分前から工事が進んでいるので、いまさらであるが(ただしまだ完成はしていない)、神保町駅の本棚ふうのレンガタイルのデザインが面白い。

とは言いつつ、ビブリオフォビア(書物恐怖症)のひとは困るかもしれないとも思った。ビブリオフォビアは、Wikipedia(英語版)に項目があるぐらいなので、それなりにある症例のような気もするが、どうなのだろう。ちなみに、Wikipediaのこの項目には、始皇帝の肖像が載っている。焚書坑儒がらみである。始皇帝といえば、先日来読んでいた『俳風柳多留』に次の句があった。

始皇から見れば清盛小僧なり

江戸の市井のひとに、東アジアの地理・歴史的なスケール感があったと思うと、なかなかに興味深い。始皇帝の暗殺譚を描いた『漢楊宮』は、草双紙でも人気の題材だったようだ。
清盛というか平家も、『平家物語』の有名な「この一門にあらざらむ人は…」のみならず、その直後の以下のくだりなんかは、ヒトラーユーゲントぽくて、なかなかにイヤだけれど。

十四五六の童部を三百人そろへて、髪をかぶろに切りまはし、赤き直垂を着せて、召し使はれけるが、京中に満ち満ちて、往反しけり。おのづから、平家のことあしざまに申す者あれば、一人聞き出さぬほどこそありけれ、余党にふれ回して、その家に乱入し、資材雑具を追捕し、その奴をからめとつて、六波羅へ率て参る。
『平家物語 巻一 禿髪』 岩波文庫より)

こよりアート など2019/12/18 20:13

◆こよりアート
先日来の「こよりの犬」に関する調査(?)は、犬の造形に関することはともかく、こよりに関する話がいくつか集まって、まだまだ続いている。共時性めいていたのは、妻が買ってきた『ビッグイシュー』(12/1:372号)に、「表現する人:紙のこよりで、自然のエネルギーのうねりを追う HITOTSUYAMA STUDIO」という、こよりをつかった現代アートの記事が載っていたことだ。かなりリアルな造形である。『ビッグイシュー』はまれにしか求めないので、思いがけないめぐりあいであった。
HITOTSUYAMA STUDIO@『ビッグイシュー』

こよりの調査から派生して、折鶴に関しても興味深い話があったのだが、それはまた別の話。

◆ゲノム・エンジン・オリガミ
テッド・チャン氏の第二短編集『息吹』(大森望訳)の一編『ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル』に、ゲノム・エンジンというシステムソフトウェアがでてくる。プラットフォームの違いでいくつか種類あって、その中にオリガミというものがあった。

「向きづけされた遺伝的アルゴリズムを用いたマイクロカーネル(Oriented GA (Genetic Algorithm)-applied  Microkernel)」の略でOriGAMiという設定はどうだろう、などと考えた。考えすぎとは思うが、テッド・チャンさんならそんなことまで設定しているかもしれない。もうひとつのシステム名・ファベルジェは、ロシアの有名な金細工師の名前らしく、これもセンスがよい。

◆紙と紙飛行機
市川優人さんの第26回鮎川哲也賞作『ジェリーフィッシュは凍らない』に、紙飛行機と紙の話がでてきた。

航空工学とは乱暴に言ってしまえば、『航空機』を開発する学問です。『航空機に使われる素材』を開発する学問ではありません。紙飛行機で喩えれば、より遠くまで飛ぶ紙飛行機の形や折り方、飛ばし方を考えるのが航空工学であって、紙そのものを作るのは彼らの本来の仕事ではないのですよ

この記述は、「紙飛行機」が「折り紙飛行機」を指す場合が多いことの例にもなっている。これは、折り紙の文献調査をするときの注意点である。「紙飛行機」が、紙などを使った模型飛行機で「折り紙飛行機」でない場合もあるからだ。

◆クリスマスツリーのエンブレム
クリスマスツリーのエンブレム
先日、講習会用のシンプルなクリスマスツリーを考えたとき、別の造形のアイデアも漠然と頭の中にあった。それをじっさいのかたちにしてみた。ツリーのシルエットをインサイドアウト技法でエンブレム風にしたものだ。わるくない。

◆ふたつの正八面体
ふたつの正八面体
ふたつの正八面体を、共通する軸にそって90度回転させた状態で貫入させた立体はどうなるか。どこまで貫入させるかは、とりあえず面の中点までとする。明快で、造形としての面白さもあるので、これを折り紙でつくってみようとした。直感的に、すっきりした構造になるように思えたのである。しかし、そうでもなく、面上の「穴」の、直角に見える部分も、120 - atan(√3(√2-1))=84.34...°という値なのであった。とりあえず2枚組でつくってみたが、あまりエレガントな構造にはならなかった。

◆哀悼
若いひとが亡くなるのはつらく、歳を重ねていても大事なひとが亡くなるのは苦しいだろう、という思いで、花代を送り、弔電を打つことが続いた、年の暮になった。

◆「暮」という文字
最近の『数学セミナー』は、劉慈欣さんの『三体』が売れているのに便乗(!)して、最新号で三体問題を特集するなど、なんだか攻めている。一年前の投稿コーナー『数学短歌の時間』も、思えば不思議な企画だった。選歌されなかったが、ブログに載せたところ、気にいってくれたひとがいた歌があった。

Q.E.D.示す墓石の記号には打ち捨てられた思索も眠る■

数学の論文で、Q.E.D.(証明終了)が「■」で示される場合があり、これは「墓石」記号とも呼ばれる。最後の■は、文字化けに見えそうだし、きわめてニッチな歌だ。気にいってくれたひとも数学関係者であった。

そのひとが、すこし前、わたしのブログに書いてあったこの歌の「ぼせき」の「ぼ」が「暮」になっています、と教えてくれた。ハカでなくてクレなのである。えっと思って確認すると、たしかにそうなっていたので修正した。いつも使っているMacBookで「ぼせき」と打つと、「墓石」より前にこの字が出た。初期設定に近い別のMacでもそうなったので、学習によるものではなさそうだ。いくつか辞書を調べたが、こんな言葉は見つからなかった。Apple Japan、日本語の辞書がテキトーだぞ。

関連して辞書をめくっていて、「暮歯」が老年を示すことを知った。使う機会はあまりなさそうな言葉ではあるが、鯨や象の歯にできるという年輪の話が思い浮んだ。

暮と墓の共通部分は「莫」である。否定と果てのなさを意味する字だ。命を失って土になるのが墓、日がないのが暮、水が少なかったり無かったりするのが沙漠である。獏はじつは獣ではなく、募るのは力がないからだろうか、などと考えた。じっさいのところは、莫はたんに音符のようで、模型は木のこともあり、幕は布である。

くらき夜の山松風は騒げども2019/12/09 21:23

◆哀悼
会費を払って報告を読むだけだが、わたしもペシャワール会の会員だ。会則5項の「会員はそれぞれ可能な範囲で、自ら創意工夫して自由なやり方で支援活動を行う」に得心していたが、これも、中村哲さんが好きだったという最澄の「一隅を照らす」の精神を反映したものか、とあらためて思った。

尊敬できるひとがいるということは、この世界で生きていることの大きな救いなので、喪失感が強い。今年は1月に、アフガニスタンの絵を多く描き、ペシャワール会報にもその絵がよく載っていた甲斐大策さんも亡くなっている。

場所:文京区白山1-33-8 朝日マンション2F JOASホール
日時:12/14(土)10:00-17:00
誰でも聴講できます。

◆Starry Night
クリスマスカードをつくる教室をします。
日時:12/15(日)13:00-15:00
クリスマスカード

思いきってシンプルな作品。今日たまたま見た次の短歌は、上のカードの雰囲気を、さらに子供らしくした感じがした。

手作りの夜に包まれ眠る子らクレヨンの月折り紙の星 前川泰信
(日経歌壇2019/12/07 穂村弘選)

同姓だが、この前川さんはまったくの他人である。ナースリー(幼児見守り的)な歌柄と折り紙と夜いうモチーフから、次の歌も連想した。

いもうとの小さき歩みいそがせて千代紙かひに行く月夜かな 木下利玄

月がでていないと夜の道は暗すぎるので、この歌は「月夜かな」でなければならない。しかし、クリスマスの夜に似合うのは、月夜よりも星月夜だ。ちなみに、星月夜というのは「暗夜に、星の光が月のように明るく見える夜」(『広辞苑』)の謂で、月のない夜のことである。今年の12月24、25日の月齢は27から28なので、夜空に明るい月はなく、暦としては絶好の星月夜になる。

追記(12/12):12/26の新月には日食もある。東京では15:35が食の最大、食分は0.389)

古歌には星より圧倒的に月の歌が多いが、次のような歌もあり、それらは、冬の星月夜に合っているようにも思える。むろん、建礼門院も永福門院もクリスマスなんて知るはずもないが。

月をこそながめ馴れしか星の夜のふかきあはれを今宵しりぬる 建礼門院右京大夫
くらき夜の山松風は騒げども木末の空に星ぞのどけき 永福門院

二首目、松風とあるが、唐松であれば葉は散るので、『モチモチの木』(斎藤隆介、滝平二郎)のような、黒々とした冬木立の間から見える星々のさまも想像する。

星月夜と言えば、1980年代の歌謡曲『旅の手帖』(石野真子)に、「星あかりで書く旅の手帖」「星あかりで読む旅の手帖」(松本隆作詞)という歌詞があったのも思い出す。当時、露営の貧乏旅行をよくしていたわたしは、この曲を耳にして、星明かりで文字を書いたり読んだりするのは無理だよねと思っていた。蛍の光でそうする以上に難しい。中国の故事に「月光読書」というものもあるが、経験上、満月でも読書はかなり難しい。さらに、新月の星月夜の照度は満月の1/10の0.02ルクスなので、事実上、文字の判読は不可能である。

紙縒の犬(つづきの2)2019/12/01 22:54

『武玉川』の「物思ひ小よりの犬も痩かたち」という一句からはじまった、「紙縒(こより)の犬」についての研究」(?)のつづきである。

ついでに、『武玉川』の句で、紙縒の犬に関係のない一句にも触れておこう。天文、紙細工、数字・図形に関連した句のほかに、「鶴」の句にも注目して読んでいたのだが、その中に、「鶴の死ぬのを亀か見て居(をり)」というものがあり、なかなかのブラックユモーアだと感心した。たしかに、亀のほうが十倍長生きする。この「七七」の句は、先に面白いと引用した坂東乃理子さんの現代川柳の付句にぴったりである。

本当に仲良しなのか鶴と亀 (坂東乃理子)
鶴の死ぬのを亀が見ており (『武玉川』:表記をあらためた)

さて。紙縒の犬についての話である。
まずは、動物文学の巨匠、日本のシートンこと戸川幸夫さんのエッセイに、ずばり『こよりの犬』というものがあった。本の題名もこれなのだが、表題の一編は、2000文字ほどの短文で、今から100年前の戸川さんの幼少期、九州は佐賀鍋島、氏の祖母と曽祖母が住む草深い村の家でのエピソードである。

 そこでこよりつくりが始まるのだ。何本もつくったこよりを、さらにより合わせて曾祖母と祖母は犬をつくりあげた。耳がぴんと立ってしっぽのきりりと巻いた日本犬であった。走っている犬、吠えている犬、いろんな犬、祖母たちは、彼女らが娘時代に、きっと私のようにして、母や祖母たちから習ったに違いないこより犬を、せっせと創造するのだ。
(略)
 私は、祖母たちがせっかくつくったこよりの犬を、みんないろりに投げ込んだ。 
 祖母たちは、たった一つしか知らない芸術をふみにじられて悲しい顔をした。慶応、元治、文久、万延……もっともっと昔から教え、教わりして伝わってきたこより芸術。今日、私はなんどかその犬をつくりだしてみようと試みるが、うまくできない。百犬百態の、生きているような犬たちの姿は、祖母たちとともにもう去って帰ってこないのだ。
『こよりの犬』戸川幸夫、1969)

戸川さんが幼年時代のことを還暦近くになって鮮明に覚えているのは、孫を喜ばせようと祖母や曽祖母がつくった犬たちを、いろりに捨ててしまったことに気がとがめた記憶となっていたためだろう。じっさい、子供というのは、ときに残酷だ。そして、ここに描写された紙縒の犬は、幸徳秋水がつくっていたそれより、はるかに手が込んでいそうである。「吠えている犬」ということは口が開いているということで、再現してみたい気もする。

さらに、2007年の第2回『幽』怪談文学賞長編部門特別賞を受賞した、長島槇子さんの連作短編集『遊郭(さと)のはなし』(『遊郭の怪談(さとのはなし)』を改題)に、『紙縒の犬』という一編があった。

 廓には、色々と願掛けやまじないがあるけれど、紙縒の犬は待ち人を呼び寄せるためのおまじない。相手から来た文なぞを裂きまして、紙縒に縒って作るんだ。尾っぽをちょいと巻いてやると、下手でも犬になるんだよ。
『紙縒の犬*内芸者のはなし』『遊郭(さと)のはなし』長島槇子、2008)

こちらは、待ち人を呼ぶ蠱物(まじもの)である。尾が巻いていることは、戸川さんのそれに似るが、凝った細工とは思えない。『武玉川』や、それを引用した『嬉遊笑覧』に記述されたものや、幸徳秋水の手癖のそれを思わせる。嫌な客が来たときに増殖する秋水の紙縒の犬は、「さかさ箒」のような長居する客を退散させるまじないも連想させるが、ここでの機能はそれが逆になっているのは面白い。長島さんの創作か、典拠があることなのかは不明である。同書の参考文献にあがっていた『江戸吉原図聚』(三谷一馬)にも描写があるのかが気になるが、これはまだ見ていない。

そして、『手仕事の日本』(柳宗悦)には、「紙縒細工」の記述があった。山形県鶴岡の記述の部分である。

煙草の道具を売る店を時折見かけますが、旅の者の目を悦ばせます。胴乱だとか煙管筒だとか、色々の種類を並べますが、中で注意すべきは紙縒細工で、黒漆のも朱漆のも見かけます。大体紙縒細工は朝鮮が優れた仕事を見せますが、我国では江戸で発達しました。
『手仕事の日本』柳宗悦、1948、引用は岩波文庫版より)

紙縒を編み、漆を塗って丈夫で軽い器にした細工物についての記述である。同書の芹沢銈介氏の挿絵にある、印籠のような「煙草具」のようなものである。
紙縒細工(芹沢銈介)
『手仕事の日本』より、紙縒細工の煙草具(芹沢銈介)

岩波文庫版では、ふりがなが、「こよりざいく」ではなく、「かみよりざいく」とある。原本はどうなっているのか。この本における紙縒細工に関する記述は、浅草、鶴岡(山形)、長門(山口)の部分にあり、そうした工芸の総称として「長門細工」という呼び名があることも述べられている。なお、紙縒に似たものに水引があり、こちらのほうのがより美術工芸品的だと思うが、華麗すぎて宗悦さんの興をひかないのか、長野県飯山の記述において、一文で触れられるだけである。

古川柳を読む話の続きなど2019/11/21 22:48

あれこれ懸案をかかえながら、帰宅後はブッキッシュな(書物の上のことだけで、実際的でなく、学者ぶった)世界に逃避している毎日なのであった。

◆折り紙教室@府中
ねずみ
日時:11/24(日)13:00-15:00
作品:ねずみ
講師:前川淳
子供や初心者でも。

◆浅野真一展 −机上の天体−
浅野真一展
日時:11/22(金)-12/8(日)11:00〜19:00(日曜17:00まで、火水曜日休廊)
場所:Nii Fine arts@大阪

折り紙作品をモデルにした絵もある、写実の油彩画家・浅野真一さんの個展の案内が来ていた。折り紙の次に、天文趣味をモチーフにするなんて、次々にわたしの琴線をかき鳴らす絵を呈してくるのであった。好きな画家のひとりにハンマースホイを挙げていた浅野さん。来年は都美でハンマースホイ展があるので、これも観に行きたい。

劇団SPAC
舞台美術に折り紙を使った、劇団SPACの『グリム童話~少女と悪魔と風車小屋~』が上演される。舞台の折り紙に、わたしの作品を元につくった「木」と「鹿」が使われている。

◆牛
牛
先日の名古屋コンベンションの空き時間に、ふと、再来年は丑年かあと、講習会用の中級難度の牛の創作をはじめて、けっこうよいものができた。既作に似るが技法が異なっている。

◆七回の回転対称
江戸切子
実家からもらってきた江戸切子のぐいのみが七回の回転対称だった。江戸切子のグラスには、近年のデザインで折鶴をモチーフにしたものもあるのだが、これはなかなかお高いのであった。

◆シュレッダー
シュレッダー
いつでも使えるシュレッダーである。(時事ネタ)

◆古川柳を読む話の続き
先日から読みすすめていた江戸の川柳選集『排風柳多留』から、さらにいくつかの句を紹介しよう。われながら、ご隠居のうんちく話みたいに話が長い。まずは、芭蕉をネタにしたものから。

はせを翁ほちやんといふと立留リ
古池のそばて(で)はせをハびくりする

「はせを」が芭蕉のことで、「ほちやん」は「ぽちゃん」。しょうもないといえばしょうもない。しかし、芭蕉没後半世紀後にすでにこのように扱われながら、三百年後の今日でもすりきれない古池の句は、いかに絶唱にしてスタンダード・ナンバーであることか、とも思う。

古川柳は、こうしたふざけた句も面白いのだが、わたしが主に関心を持っているのは、以下の三つである。
(1)天文に関係する句
(2)紙細工に関係する句
(3)数字やかたちのでてくる句

(2)に属する「紙雛」の句では、前に挙げたものの他に、以下があった。

紙ひなへ棒を通してぼろを下ケ
紙ひなのゆふれい花の宵に出来
ぐそくひつ紙ひなひとつまぎれ込

一句目、上巳の節句人形というより、写真のような、信州松本の、吊り下げる七夕人形を連想させる。
松本七夕人形

二句目、幽霊花は彼岸花のことなので、雛といっても上巳の節句を詠んだものではない。九月九日の重陽の節句に雛人形を飾る「後の雛」という習俗が江戸中期からあり(『嬉遊笑覧 巻之六下巻』による)、太陰太陽暦で秋彼岸のすこし後になるので、そのことである可能性は高い。しかし、『守貞謾稿 巻二十七』『近世風俗志 四』)によれば、重陽の節句に雛を飾るのは大坂の習俗である。『柳多留』の句は主に江戸のものなのではないか。彼岸花をめぐる民俗も、『野草雑記』(柳田國男)や『ヒガンバナの博物誌』(栗田子郎)等を確認したが、これだというものはなく、句意はいまひとつ不明だ。

三句目はわかりやすい。端午の節句飾りをしまった具足櫃に紙雛が紛れ込んでいるということで、『トイ・ストーリー』的な物語も思い浮かぶ。

紙細工関連句では、お待ちかね(?)の折鶴の句もあった。

靍の一(ト)こへ折かけてかふろたち

かふろ(かむろ)は、遊女見習いの少女のこと。鶴を折って遊んでいる彼女らに、花魁が声をかける。「鶴の一声」と「一声かけて」と「鶴折りかけて」がかかっているという句だと解釈した。ただ、遊郭の風俗を前提にした句は、割り切れない感情も浮かんで素直に鑑賞はできない。

『柳多留』にひとおり目を通したので、続いて、『俳諧武玉川』も読んだ。複数人で互いに句をつけてゆく「付合」の付句を集めたということでは『柳多留』と同様だが、単独では内容が読めない句がより多く、前句も不明なので解釈はさらに困難である。五七五ではなく七七のものも多い。当時は、付句だけを読んで前句を想像するのも読みどころだったのかもしれないが、時代の隔たりが高いハードルになっている。とはいえ、ふむふむ、うんうんというものもある。天文関連句では、まず次の句がわかりやすかった。

星の名を覚て空も伽(とぎ)に成(なる)

星の名前を覚えると、夜空がお伽話の舞台になるという句意だ。当時、西洋の星座やギリシア神話は知られていたはずもないので、七夕の話などであろうが、星空への親しみというのは、時代によらず、こういうところから始まるのだろう。逆にというか、現代でも「あるある」なのは、天文研究者が星座の伝説などにまったく無知ということで、次の句は、その感覚に通じる。

天文台て(で)なふらるゝ星

七七の付句で、以前、海部宣男さんの著書『宇宙をうたう』(1995)でも見たことがあった。海部さん曰く「天文台というあやしげなところでは、一体何をしているのだろう。さぞや星をつつきまさわしているのではないか。これは、昔も今も変わらない、市民の感覚かもしれない」 と。上掲の「星の名を…」の付句にしても、たとえば芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天河」に付けても味がでる。

興味深いのは、天文台という言葉がこの頃からあったことだ。司天台とも言ったようだが、この句は『武玉川』の一二篇(1758)に掲載されているので、その前年まで神田佐久間町(秋葉原駅の近く)にあり、宝暦暦の完成で解体された幕府天文方の佐久間天文台(1746-1757)のことを指していると考えて、まず間違いがない。

ただ、佐久間天文台は、日本天文学史上、誇れるような天文台ではない。徳川吉宗の命でつくられたときは、西洋天文学の導入という考えがあったのだが、吉宗の死もあって、その企ても中途半端なものに終わり、できた宝暦暦は、改暦後10年も経たずに、在野の天文家が予測した日食の予報を外すなど、失敗した暦となった。佐久間天文台では、「星をなぶる」ほどの、つっこんだ研究はできていなかったのである。(参考:『天文方と陰陽道』(林淳))

わたしの関心のその2である「紙細工に関係する句」では、『武玉川』にも紙雛の句があった。

紙雛の物にかまハぬ立すかた
紙雛ハ雛の中ての通り者

通り者というのは、もののわかったひとということだそうで、贅沢品の雛人形の中で、紙雛は気安いという意味であろう。立ち姿の句も同様である。変わったところでは、紙縒(こより)細工の犬を詠んだと思われる句もあった。

物思ひ小よりの犬も痩かたち

岩波文庫版の索引では「物思い紙縒の犬も痩せがたち」という文字遣いになっている。『嬉遊笑覧』にもこの句が引かれているが、句を引用するだけで、詳しい説明はなく、どういうものなのか不明だ。郷土玩具の藁馬のようなものだろうか、と頭をひねっていたのだが、意外なところ、『夫・幸徳秋水の思ひ出』(師岡千代子、1946)に、ヒントになる記述があった。

秋水には人の知らない奇妙な癖があつて、來客が不快な時や話しに退屈した時には、紙縒で犬を造つて机の上に竝べるのであつた。で、その犬の有無や數に拠つて、大體秋水の氣持ちや客の性質を知ることが出來たが、人に依つては、一度に五六匹の犬を見受けることがあつた。

土佐の幸徳家(さかのぼると幸徳井(かでい)家)は陰陽師の家系なので、この紙細工がその伝承だとするとさらに面白いが、とりあえずそんな話はない。

秋水とくれば、昨今の世相もあって、大逆事件に衝撃を受けて啄木が書いたという『時代閉塞の現状』を連想した。あらためて読んだら、以下の部分などは、今になまなましいのであった。

すべての青年の権利たる教育がその一部分- 富有なる父兄をもった一部分だけの特権となり、さらにそれが無法なる試験制度のためにさらにまた約三分の一だけに限られている事実や、国民の最大多数の食事を制限している高率の租税の費途なども目撃している。

「…正義だの、人道だのということにはおかまいなしに一生懸命儲けなければならぬ。国のためなんて考える暇があるものか!」(略)それは一見かの強権を敵としているようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼らはじつにいっさいの人間の活動を白眼をもって見るごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである。

今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口の心配をしなければならなくなったということではないか。そうしてそう着実になっているにかわらず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。しかも彼らはまだまだ幸福なほうである。前にもいったごとく、彼らに何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を享ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。

『武玉川』の話をしていたのであった。折り紙関連句では、こんな句もあった。

紙屑へ折そこなつて捨小舟

折り紙創作家、愛好家は、その多くが、折りそこなった、しかしまだものになるかもしれない、通称「折りゴミ」をためた箱を持っている。というわけで、「紙屑へ折そこなう」というのは、折り紙愛好家にとって、250年の時を越えて、とても身近な感覚である。「捨小舟」は「すておぶね」と読むようで、辞典にも載っている言葉であった。「乗る人もなく捨てられたままの舟。多くは頼る者のない寂しい身の上の比喩に用いる」(『大辞林』) なんとも、寂々たる思いになる言葉で、西行の歌も連想した。

大浪に引かれ出でたる心地して助け舟なき沖に揺らるる 西行

取り残された感覚が真に迫る歌だ。などと、哀愁に浸っていないで『武玉川』に戻ると、折鶴の句もあった。

鶴折て恋しい方へ投て見(みる)

昭和歌謡曲の『折鶴』(安井かずみ作詞、浜圭介作曲、千葉紘子歌)の歌詞みたいな句である。以前あげた『柳多留』の「池のみぎわに靏を折待つて居る」にも通じる。そして、次の句。これは、折鶴の意味や来歴を考える意味でも興味深い。

折靍をふく時あたら貌替り
(注:貌(かほ)の文字は、引用元では、「貌」から偏を取った、白に「貝あし」である)

折鶴は最後に息を吹き込むもので、そこに呪術的な意味もあるという岡村昌夫さんの説を補強する。同時に、「折鶴」という言葉が18世紀半ばにつかわれていたことを示す例のひとつである。案外その実例は少ないのだ。和算の書籍にも「折鶴」という表記はあったが、それらは擬似漢文なので「鶴折リテ」などと読む可能性もある。これに比べて、上掲句は五音の上句なので、ヲリヅルハ、もしくはヲリツルハで間違いがない。

さらに、こんな句もあった。

指先を綺麗につかふ紙細工

わかりやすすぎて、むしろ拍子抜けするくらいだが、折り紙の本の巻頭の題辞にしたい気もする。連想するのは以下の現代川柳だ。

手が好きでやがてすべてが好きになる 時実新子

「(3)数字やかたちがでてくる句」では以下が面白かった。

上り藤思へは無理な紋所

家紋の「上り藤」(のぼりふじ、あがりふじ)は、藤の花を象った紋だが、房が上向きになっていて、たしかに無理やりである。「裏桔梗思へば無礼な紋所」など、いろいろできる。「裏桔梗」というのは、キキョウの花をガクの側から描いた、つまり尻を向けた紋である。変な紋を探すのは面白い。たとえば、よく知られた紋だが、真田の平時の紋「結び雁金」のねじれた鳥の翼も、冷静に見るととても変だ。結んでいないのに「結び」というのは、数学的にも納得できない。末端をつなげたとき、交点数2以下は結び目にならない。This is not a knot. (伝統的なダジャレ)である。
裏桔梗と結び雁金

『READY TO FLY』など2019/11/08 22:17

◆ドングリ干渉計
ドングリ干渉計
以前そう思ったことの焼き直しだが、ベランダに落ちていたコナラのドングリの「ハカマ」が、パラボラアンテナみたいなので、それを拾って干渉計をつくってみた。ほとんど小学生の工作だが、なんだか自信作である。焦点に副鏡も受信機もないので、観測はできない。

『Origamix - Theory & Challenges』by Totani
フランス在住の合谷哲哉さんから、著書『Origamix - Theory & Challenges』をいただいた。

◆『READY TO FLY』
READY TO FLY
東京ミッドタウン21-21で開催されていた『虫展 -デザインのお手本-』を、最終日(11/4)に見てきた。一番のお目当ては、山中俊治、斉藤一哉、杉原寛、谷道鼓太朗、村松充の各氏による、『READY TO FLY』と題された、甲虫の内翅の展開と収納をみせるロボットだった。以前聞いた斉藤一哉さんの講演では、カブトムシは、収納が得意で展開に羽ばたきの遠心力も使うが、テントウムシは、展開がバネ仕掛けで早いが、収納はやや苦手で、それゆえ「シミチョロ」もあるという話で、機構も異なるということだった。このロボットは、それが明確にわかるものではなかったが、面白い展示物だった。

この日は、行きそびれていた神田古本まつりの最終日にも寄った。翌日の用事のため、山梨-東京の移動があり、鈍行の鉄道を使ったのだが、これもひさしぶりだった。乗客がまばらで、色づいた秋の山々が窓を通り過ぎてゆく車内は、移動するサンルーム状態だった。陽射しの中で「今日も一日じゅう本が読める」という記述のある『ヘンリ・ライクロフトの私記』(ギッシング著、平井正穂訳)などを読んだ。移動中の読書というのは、なんであんなにうれしいのだろうか。

『ヘンリ・ライクロフトの私記』は、ヴィクトリア朝のイギリス人作家・ギッシングが、自身よりやや年長の売れなかった隠棲作家の老境のつぶやきという体裁で書いた小説だ。かつて英語のリーダーの教材としてよく知られていたらしいが、わたしはギッシングの名前も知らず、『本の雑誌』11月号の「マイナーポエット特集」で、能邨陽子さんが取り上げていたことで知った。版が切れているが、邦訳の短編集(小池滋訳、岩波文庫)も出ていて、これも味わい深かった。資本主義が浸透した19世紀のイギリスの、やや苦いストーリーが、貧富の格差が広がり、暮雲落日の感のある現代日本に妙になじむ。

『私記』に、すこし前にこのブログで触れたホーソーンも出てきた。

「労働は世界の呪いでなくでなんであるか。人間は労働に携わるほどそれに比例して動物化するのだ。(略)」
 かように、ブルック農場のナサニエル・ホーソーンは書いている。幻滅感をひどく味わったために、彼の言葉には誇張がある。労働は嫌悪すべきもの、人間を動物化するものであるかもしれないし、また実際にしばしばそうであるが、断じて世界の呪いではない。いや、むしろ世界の祝福ですらある。ホーソーンは馬鹿なことをやって、その報いで心の平衡を失ったのにすぎない。

平井氏の訳注では、以下のように記される。知らなかった話だ。

ナサニエル・ホーソーン - アメリカの小説家(一八〇四-六四)。彼は一八四一年から四七年にかけてマサチューセッツに理想的な村ブルック農場を作ろうとして失敗した。

また、「英国に生まれて嬉しい理由はたくさんあるが、第一の理由は、シェークスピアを母語で読めることである」とあるのを、自分に当てはめると、近現代を含めた短歌、俳句、川柳などの短詩が母語で読めることになるのだろう、とも考えた。最近サリンジャーの『シーモア -序章』を読み返して、似たことを思ったばかりだった。同作で、天才シーモアは原語(日本語)で俳句を読んでいることになっているが、サリンジャー自身はそうではなかったはずである。気の向くまま、短歌や俳句・川柳を読んで、あれこれ考えることができるたのしみを持つことは、あのサリンジャーに「いいでしょ?」と目配せができそうな気がしたのだ。

とは言え、わたしは、和紙、和算、見立て、地口、歳時記、短歌、俳句、民俗信仰など、好きな日本の文化を、滅んでしまうと惜しいエスニックな文化として尊んでいるところがある。客観的に見れば、語学も苦手な、日本以外での生活も難しい典型的な日本人だが、すくなからず異邦人の感覚がある。目の前の現代の日本で起きる馬鹿げたことへの憤懣、というか幻滅、そして恐れへのカウンターとしての、近世以前の、滅んでしまった、あるいは、滅びかかけた文化の中のある小さきものを対置する感覚である。これは、エドワード・サイードのいうオリエンタリズムじみたねじれかもしれないので、褒められるものでもないが、思い込みに満ちた日本万歳よりはましだろう。

『私記』には、自然への親近感とともに、自然科学への無関心もたびたび書かれているが、いわゆる理系であろうわたしにも、それらの記述にそれほどの違和感はなかった。彼が関心を持たないのは、自然科学というより、科学技術である。ラッダイト(機械破壊運動)の時代はすでに去っており、ライクラフト(≒ギッシング )も科学技術の力強さは重々承知である。彼の態度は、嫌悪というより距離感で、心霊科学への揶揄などは、むしろ科学的である。彼の立ち位置は、たぶん「科学は野暮である」というものだ。これは、同時代のポオのソネット『科学へ』にも通じる。

古川柳の中の星空 その22019/11/01 22:32

『俳風柳多留』を読みすすめ、興味深い句を見つけた。まず、折り紙関連句である。

池のみぎわに靏を折待つて居る

「靏」は「鶴」の正字で、池の畔で折鶴を折りながら待ち人を思う、たぶん娘の姿を描いた句である。安永八年(1779年)刊行の第十四篇の収録なので、『秘伝千羽鶴折形』(1797年)と同時期の句ということになる。「靏を折り池のみぎわで待つて居る」のほうが、五七五の収まりがよいと思うのだが、なぜか七五五である。ちなみに、5:7:5という比率は、正方形の辺:正方形の対角線:正方形の辺の近似なので、折り紙的(!)である。

そして、また、天文川柳も見つけた。

客星の光うしなふ後の月

客星というのは、定家の『明月記』の記述でも知られるように、超新星や彗星などの見慣れない星、突発天体のことである。この客星はいったいなにか。山澤英雄氏の校注によると、安永六年(1777年)の投句なので、そのすこし前の天文現象を調べてみた。

「C/1774 P1 Montaigne」彗星が、時期的に一番近かった。この彗星に関する記述のある、天文学者・シャルル・メシエのノートには、1774年の8-10月の観測とあった。発見はそれよりはやく、同年の4月、ジャック・モンテーニュ(あのモンテーニュとは別人の天文学者)による。それらは、望遠鏡を使った観測であり、肉眼での観測は難しかったようだ。とは言え、メシエの記述には、月の明かりに観測が妨げられたという内容もあって(『Cometography: Volume 1, Ancient-1799: A Catalog of Comets』 G. W. Kronk、1999による)、川柳の記述に妙に符合している。「後の月」を歳時記通りに太陰太陽暦九月十三日の月とすると、1774年10月13日にあたるので、メシエらがこの星を観測できなくなった時期とは若干ずれるのだが、たいへん興味深い。

まさか、メシエやモンテーニュが詠んだ句と主張するのではないが、ちょうどこのころ、日本に麻田剛立(1734-1799)というひとがいたことは付け加えておくべきだろう。豊後の国を脱藩し、大坂で医師をしながら天文の研究を続け、ケプラーの第三法則を独自に発見したという話(異論も多いのだが)も伝わる傑物だ。彼が1770年ごろから望遠鏡による観測もしていたのはたしかである。麻田自身がこの句を詠んだというより、麻田から話を聞いた者が(それは、観測自体ではなく、麻田が入手したメシエらの情報かもしれない)、それを元に詠んだ句なのではないかと、想像したのである。なんの文献的な裏づけもない、思いつきなのだが。

ネズミ など2019/10/28 21:15

なにを講習作品に申し込むかで悩んでいたのだが、以前つくった作品をもとに、かわいくて難しすぎないハツカネズミができたので、これにした。
mice

ネズミの折り紙は、10/24-11/11のWOD(ワールド・オリガミ・デイズ)2019でも募集中。

突然だけれど、以下、ネズミ関する豆知識である。
どれも、詳しくはよく知らない話なんだけれどね。

○mouseの複数形はmiceである。同様のものに、louse(シラミ)の複数形liceがある。

○「大山鳴動鼠一匹」ということわざは、古代ローマのラテン語起源である。

○歳時記に鼠の項目はないが、新年の季語に、鼠の忌み言葉として、「嫁が君」というものがある。嫁が君=鼠を知らないと、それらの句は意味不明だ。

三寳に登りて追はれ嫁が君 高浜虚子
嫁が君古人は心ひろかりし 富安風生

◆いい感じの石ころ
宮田珠己さんの『いい感じの石ころを拾いに』を読んだ。わたしの手元にも、「いい感じ」なので拾ってきた石がある。駿河湾の某海岸で拾った石で、折り紙の展開図ぽい線が味わい深い。

折り紙の展開図っぽい石

何年か前に読んだ、『小石、地球の来歴を語る』(ヤン・ザラシーヴィッチ著、江口あとか訳)という本も面白かったが、宮田さんの石に対するスタンスのゆるさもよい。今度、海岸や川に行ったときは、いい感じの石を探すだろうな、と。

三鷹・星と宇宙の日ほか2019/10/23 20:15

三鷹市の国立天文台で開催されるイベント「三鷹・星と宇宙の日2019」の野辺山観測所のコーナーで、折り紙教室をします。無料です。
10月26日(土)、11:00-16:00、1回20分で10名ほどを何回か。
EHT
作品は、EHT(イベント・ホライズン・テレスコープ)の基地局を描いた地球儀(+おまけ(予定))です。

◆『緋文字』
昨日、ひさしぶりに、山梨県北杜市大泉町にあるターシャ・テューダー ミュージアム ジャパンに行った。ターシャ的なライフスタイルには程遠い日々を送っているが、妻が、同ミュージアムの前身である「絵本の樹美術館」の手伝いをしていたという縁がある。

新しくなった展示の中に、ナサニエル・ホーソーンの『緋文字』の表紙(新潮文庫版)を拡大したものがあって、これは!となった。叔父(前川直、故人)の装画・装幀なのである。ターシャは子供のころ、グウェンおばさん(実の伯母ではない)という女性に世話になっていて、彼女がナサニエルの孫だった、というつながりだそうだ。

緋文字

この展示を手がけた、ミュージアムの共同経営者である出原速夫さんは、ターシャの研究家、ペンギン基金事務局長にして、ブックデザイナーというひとである。叔父の装幀が、氏のメガネにかなったとも言える。出原さんから「世界は狭いですねえ。前川さん、そういう血筋ですか?」とも訊かれたが、親戚で美術が専門だったのは、叔父ひとりだけだ。血筋と言えば、ナサニエルの曽祖父は、悪名高いセイラムの魔女狩り裁判の判事のひとりだったそうで、『緋文字』の執筆動機にはその贖罪意識もあったのではないか、という説明も出原さんから聞いた。

この日は、ターシャさんの描く絵を見て、大人の顔には眉毛が描かれているが、子供では省略されていることが多い、ということに気づいた。たしかに子供の眉毛は薄い。なんで、そんなことを気にしたかというと、11月末に出る『折紙探偵団』の記事のため、わたしがイラストレーションを描くことになって、人物の眼の省略ですこし悩んだのである。眼をいれると一気に人物がキャラクター化して、伝えたいことの抽象性がぼけてしまう。髪型や服装にもそういうところがあって、難しい。そして、ふと思って調べたら、いわさきちひろさんの絵も、ほとんど眉毛が描かれていなかった。

◆31番
昨日は、ノルマなしというか、美術+音楽+読書の一日であった。めったにコンサートには行かないのだが、ご近所さんのすすめで、八ヶ岳やまびこホールに、若い音楽家、齊藤一也さん(ピアノ)と鈴木舞さん(ヴァイオリン)の演奏を聴きに行った。プログラムはグリーグのヴァイオリン・ソナタほか。鈴木さんの演奏はパワフルで華麗、齊藤さんのソロ演奏はベートーヴェンのピアノ・ソナタ31番で、迫力満点だった。31番は、いわゆる三大ソナタなどと違って耳馴染みがないが、かきたてられるものがあった。帰宅後、家にもCD(演奏:アシュケナージ)があったので、あらためて聴いた。自分で買ったCDなのに、聴くのは20年以上ぶりぐらいであった。そもそも、最近音楽をあまり聴いていない。グレン・グールドの演奏もあるらしいので、それも聴いてみたい。

ベートーヴェンは60歳にならずに世を去っているが、この日、本邦では、60歳になって世襲の仕事に就いたひともいた。たいへんである。

◆冠雪
コンサートのMCで、ノルウェーのグリーグを選んだのは八ヶ岳山麓には北欧の雰囲気もあるからという話があった。事実、八ヶ岳は冠雪し、今朝の観測所の会議前に、冬が近いねと話題になった。写真は、野辺山観測所の会議室から撮ったものである。

八ヶ岳の冠雪

目になれし山にはあれど
秋来れば
神や住まむとかしこみて見る
石川啄木

◆『不条理日記』
吾妻ひでおさんの訃報を聞いて、書棚をあれこれ探したのだが、『不条理日記』が見つからなかった。マンガ本をごっそり売った時期があるので、そのときに売ってしまったようだ。