第28回折り紙の科学・数学・教育研究集会など2020/07/15 00:00

◆第28回折り紙の科学・数学・教育研究集会
7月18日(土) 10:00-17:00に、日本折紙学会主催、第28回折り紙の科学・数学・教育研究集会をオンラインで行います。チケット販売中です(コンビニ決済もあります)。

◆『紙幣鶴』その後
ひとつ前に書いた、斉藤茂吉の随筆『紙幣鶴』の鶴はどういうものだったのか、という話のつづきである。これを読んだ知人が、「1920年ごろのオーストリアの1000クローネを調べたら、いま一般的な紙幣とは長方形の比率がずいぶん違っていました」と教えてくれた。たしかに、かなり横が短い。古銭ショップの映像から計測すると、100対151であった。これなら、折り返して、鶴を折りやすそうだ。

100対151という値は、映像から計測したので、誤差もありそうで、ぴったり2対3かもしれない。となると、『秘伝千羽鶴折形』の「拾餌(ゑひろひ)」、「呉竹(くれたけ)」、「杜若(かきつばた)」、「瓜の蔓(うりのつる)」がその比率の長方形だ。それらは、切らないといけないが、第一次世界大戦後のドイツで1兆倍のハイパーインフレーションになったように、同盟国のオーストリー・ハンガリー帝国でも、それは紙切れ同然だったようだ。

なお、「オーストリアの王冠を飛ばす」と書いたが、王冠=Kronenは、彼の国の貨幣の単位でもある。コロナウイルスのコロナと同じ語源である。

◆豆大師の並び
アマビコ、アマビエなどの図像が、感染症避けの護符として注目を集めているが、よりメジャーなのは、鍾馗や元三大師(がんざんだいし)だ。元三大師こと、平安時代の高僧・良源の伝説を起源とする護符は、角大師(つのだいし)と豆大師の二種類がある。角大師は西洋の悪魔に似た図像で、豆大師は、観音信仰に基づく三十三体の小さな大師像を描いたものだ。
元三大師の護符

この護符は、東京・調布の深大寺の未使用シールが我が家にもあった。「悪魔の前川」として、瓶詰めの悪魔という呪物をつくるさいに封印として使おうと求めたものである。あらためて見ると、豆大師の並びも気になった。三十三の観音の化身に由来する三十三の大師像の並びが、2+3+4×7になっている。33という数字なら、3,4,5,6,7,8の台形、そして、2,3,4,5,6,7,6という3回回転対称の六角形もきれいだ。
33の並び

月刊『みすず』など2020/07/04 22:44

◆月刊『みすず』
みすず書房の月刊誌『みすず』で、『空想の補助線』というエッセイの隔月連載を始めた。一回目は、自己紹介ということもあり、折り紙について書いたが、編集者さんと、いろいろ話題を広げていきましょう、と話している。最近、文章を書いて披露する機会が増えていて、不思議な気分である。

◆黄金薔薇匣
先週、美術大学のリモート講義で、非常勤講師をした。講義のアウトラインは、折り紙造形における黄金比の話とした。講義の準備で「ゴールデン・ボックス」という黄金比を使った作品をあらためて検討しているうちに、山折りと谷折りを変えるだけで、薔薇のような模様ができることに気がついた。組むのはパズルだが、面白い。
黄金薔薇匣

◆ストレスは案外低い
タイガースファンは、プロ野球が始まってむしろストレスが増えたと言っているらしい。しかし、無観客ゲームで練習のような感覚もあり、まあこんなものかと、思いの外ストレスは低い。ただし、パ・リーグ最下位のバファローズの勝ち星の数は気になって、「今日のオリックスくんはどうかなあ」とチェックをしている。

◆『紙幣鶴』
斎藤茂吉が、『紙幣鶴』という短いエッセイ書いていたのを見つけた。1920年代、オーストリアのカフェで、彼の地の千円紙幣(この言いかたも面白い)で鶴を折って飛ばす女性が、「墺太利のお金は、こうやってどんどん飛ぶわ」とか 「 fliegende oesterreichische Kronen!」(オーストリアの王冠を飛ばすといった意味)と言っていたという話である。

飛ばしたといっても、たちまち床に落ちたとあるので、あまりよく飛ばなかったようで、それはそれで納得(ふつうの折鶴は紙飛行機のようには飛ばない)なのだが、気になるのは、長方形(約2:1)の紙幣で、どのように鶴を折ったのかということだ。まさか、正方形に切ったわけではあるまい。そもそも、それはほんとうに鶴だったのか。

折り畳んで正方形にしていたのであろうが、長方形をそのまま使ったとすれば面白い。長方形の頂点を、そのまま頂点とする四角形ではなく、長辺の中点ふたつと、長辺の延長が無限遠で「交わる」点ふたつ、その4点を頂点とする四角形を考えると、そのかたちからも、基本条件を満たす折鶴がきれいにできることを川崎敏和さんが指摘している。写真は、玩具のドル紙幣を用いて、その方法で折ったものだ。名付けてT$URU)。1920年代のオーストリアで、そんな鶴を折っていたひとがいたとは、まず考えられないけれど。
T$URU

◆『獨楽吟』
7月末に刊行される日本折紙学会の機関誌『折紙探偵団』に、『折り紙がでてくる小説から』という記事を書き、幕末の国学者・橘曙覧(たちばなあけみ)の『獨楽吟』から一首を引いて、題辞として使った。

たのしみはそぞろ読みゆく書(ふみ)の中(うち)に我とひとしき人をみし時

『獨楽吟』は、「たのしみは」の初句で始まる五十二首で、ほかに次のような歌がある。

たのしみは朝おきいでゝ昨日まで無かりし花の咲ける見る時
たのしみは常に見なれぬ鳥の来て軒遠からぬ樹に鳴きし時
たのしみは人も訪(と)ひこず事もなく心をいれて書(ふみ)を見る時

現在、基本的にリモートワークではなく、出勤して仕事をしているが、感染症による交流の自粛で、そうでなくても隠居じみていたわたしの生活は、よりその面が強化され、まさにこの歌みたいになっている。

家の周囲は、今年は草刈りが遅れたこともあって、螢袋(ヤマホタルブクロ)がよく育っている。花の上で羽化した蝉の抜け殻も見た。たぶん、蜩(ひぐらし)だ。一週間ほど前に今年初めてその声を聞いたばかりである。螢袋の花は、タコウィンナーにも似ていてるが、花弁は五裂で、桔梗の同類であることも主張している。
ヤマホタルブクロ

垂れて咲く螢袋は雨の花 澤村芳翠
かはるがはる蜂吐き出して釣鐘草 島村元

釣鐘草は螢袋の別名だ。この句のように、螢ならぬ蜂がその花の中に潜り込んでいるのはよく見る。暗闇で中に螢がはいっていたら雅趣があるが、家の近くには螢はいない。しかし、この季節になると螢を見たくなる。ということで、先日、より標高の低い螢の棲息地に行き、ふわふわと舞う螢火に、ああ今年も螢を見たなあと納得した。
螢

蜂と螢袋は共生しているようだが、ムシトリナデシコは戦っている。虫取撫子は、紅色の五弁の小さい花が、分岐する茎の先端に多数咲く野草だ。食虫植物ではないが、葉の下の茎に粘液を分泌する部分があり、虫が捕らえられる。写真は、じっさいに虫が脚をとられていたさまだ。受粉に利さない蟻のような虫を避けるということらしい。今年はじめてそれと知った花だが、父母の遺品である『日本大歳時記』にも載っていた。別名を小町草というのだそうだ。
虫取撫子

その歳時記によると、薊(あざみ)は春の季語だが、花期は初夏から夏なので、ひぐらしの季語が秋であることと同様に、納得しがたい。ただ、夏薊という季語もある。
薊の蕾
薊の蕾を初めてしみじみと見ると、向日葵の種のようなフィボナッチ螺旋状になっていてみごとだった。

というふうに、環境に恵まれていると、身の周りに広がる小世界でも、充分満足できる。しかし、こんな言葉もある。

草の庵を愛するも咎とす 閑寂に着するもさはりなるべし
(草庵を愛するのも罪である。静謐に執着するのも悟達の障害となる)(『方丈記』

隠遁者にも我執があることを述べているのだが、それとはまた別に、昨今は、小世界での充足の外の世界で苦しんでいるひとがいる情況を思わざるをえない。『橘曙覧全歌集』を通して読んださいも、曙覧が尊王攘夷思想に陶酔し、彼の自己肯定感が身辺と皇国日本だけを巡っているのには、もやもやした。

などと考えているからか、最近は、「ここは平和だなあ」が口癖になっている。夕刻にひぐらしの声を聞き、風に揺れる螢袋を見て、そう呟くこと自体、惧れであり、後ろめたさの表明なのだろう。ちなみに、「後ろめたい」の語源は「後ろ目痛し」すなわち、視線が痛いということであるという。

ブックデザインなど2020/06/21 10:18

◆ブックデザイン
『宇宙と素粒子』(千夜千冊エディション)(松岡正剛)の装幀に、作品を提供した。

宇宙と素粒子』(松岡正剛)

◆折り紙パズル
折り紙による幾何の問題を思いついた。自分で考えたいひとのために、解答は「シール」で隠しておく。

◇問題
・正方形の紙を折って、その中心に、面積1/25の正方形(辺が1/5の正方形)を作図せよ。
・工程は6回とする。
・1回の工程は、明確な目安で折り目をつけることのみとする。
(つまり、折って戻すことで直線を引くことのみとする)
(よって、6回の工程のうち4回は、正方形の辺を描く工程になる)

◇解答
1/25折り紙パズル

◆90度の1/4
ふと見た温度計が、22.5度という「折り紙好きのする数値」になっていたので、写真を撮った
22.5度

◆ひび割れ
先日、眼鏡が破損してつくりかえたが、今度は、スマートフォンの画面に盛大にひびがはいった。木製の床の上に1mぐらいの高さから落下し、それほど強い衝撃ではなかったと思うのだが、条件が重なったためか、みごとなひびになった。
ひび
ガラス面と床面が角度なしに両のてのひらを合わせるように衝突した。べゼル(枠)に接する部分にすでに小さな亀裂があったので、それが初期条件になって破壊が広がったようだ。それゆえか、端点(左下)から成長した、木の枝や稲妻に似た構造があるように見える。ある意味きれいで、寺田寅彦先生に見てもらいたい(!?)。

日食と角香箱2020/06/16 21:54

次の日曜日(6月21日)に、日食がある。日本では部分日食となるが、九州や沖縄など西南地方ではかなり大きく欠ける。『理科年表』を見ると、福岡での最大食分が0.618となっていた。おお、これは、黄金比の逆数ではないか。
21June2020日食

食分というのは、影の部分の幅/太陽の視直径という定義なので、下図のようになる(白い線については、後述)。なお、厳密には、月と太陽の視直径はぴったり同じではない。とくに今回は、中心食帯でも金環食なので、そのずれがある。影の部分の幅は、太陽の視半径+月の視半径-太陽と月の中心の角距離と定義される。ここではそれを単純化して描いた。

部分食の食分が黄金比であること自体にとくに意味はないが、ふたつの円が黄金比で交わるこの図を描いたのは、そこに面白い図形の性質はないだろうかと思ったからだ。そして、見ているうちに、「角香箱の近似黄金比」のことを思い出した。角香箱(つのこうばこ)というのは、伝承の折り紙作品のひとつである。それを思い出したのは、この図に、白い線で示したように、直角の1/4と1/8の近似値が見えるからだ。
食分黄金比の日食

折り紙になじみ深いそれらの角度から、黄金比のよい近似がでてくることがあることは、ほとんど知られていない。以前、永田紀子さんの折り紙作品を分析していて、この近似に気がついたのだが、わたしも、ほとんど忘れていた。「こんなところに黄金比の近似値があったなんて」ということを私信で伝えただけだったが、以下にそれを示す。
角香箱近似黄金比
この図に示したように、角香箱の底面の辺の長さと「口」の辺の長さの比は、ほぼ黄金比なのである。

日食に話を戻そう。『理科年表』の食の欠けかたを示す値は、食分だけであるが、面積比もわかりやすい指標だ。明るさが面積にほぼ比例するからだ。太陽も月も視直径が等しい円盤であるとして、食分(横軸)と面積比(縦軸)の関係は図のようになる。あまりきれいな式ではないが、グラフからもわかるように、この関係は、食分>0.4においてはほぼ直線で、面積比=1.2×食分-0.2と近似できる。
日食の食分と面積比

那覇の最大食分0.837から、面積比を上記の近似式で計算すると約0.8で、まだ20%の明るさがある。やや厚い曇りの日ぐらいだ。今回、中国やインドでは、金環食を見ることができるが、そのとき、太陽と月の視半径は、それぞれ、15分44.2秒と15分24.1秒(『理科年表』)で、これから計算される金環の面積は太陽の約100分の4となる。これはちいさな数字に思えるが、それでもかなり明るい。皆既日食のときは、コロナ(光冠)が見えるが、その明るさは太陽全体の100万分の1ぐらいなので、部分日食や金環日食ではそれを見ることはできない。100万分の1といっても、満月の明るさと同じ桁なのだが、いかに太陽本体が明るいかということだ。

なんてことを書いていると、半年前までは、コロナといえば太陽の光冠であり、太陽コロナに見た目が似ているコロナ放電であり、天文観測的には、かんむり座(Corona Borealis : CrB)と南のかんむり座(Corona Australis : CrA)であり、ストーブなどのメーカー(我が家にあるのもそうだ)で、そんな自動車の名前もあったよな、ということだったのになあ、と思う。

展開図、眼鏡、気球、サリンジャー、そして『しししし』2020/06/14 14:02

先日、ひさしぶりに都心の大型書店に行った。もとめた本のひとつが、歌集『展開図』(小島なお)だった。まずは、タイトルと装幀に惹かれた。円錐の展開図が、カバーと扉に描かれ、表紙では、その図がエンボスになって刻印されている(装幀:日本ハイコムデザイン室)。これはかっこいい。しかし、われながらめんどうくさいのだが、シンプルな幾何図形を見ると、検証をしたくなる。
『展開図』(小島なお)

円錐の展開図では、底面の円周と円錐面になる扇形の円弧の長さが一致していなくてはならない。したがって、360度/扇形の内角=扇形の半径/底面の半径となるはずだ。しかし、この図から計測した値は、360/扇形の内角=3.08で、扇形の半径/底面の半径=3.25で、わずかなずれがあった。3.08と3.25の違いを一瞥で読み取れたはずもないが、あらためて図に示すと、円錐面に糊しろができた。
『展開図』表紙から

字余りもまた定型詩の魅力であるということを象徴しているのかもしれない…とか。

そもそも、球と違って無限のバリエーションがある円錐で、なぜこのかたちなのだろうか。値が3.1前後なので、比率を円周率にするのは、きれいかもしれない。底面の半径を1とすれば、円錐面の面積がπ^2となって、特別な円錐という気がしないでもない。

次に考えたのは、√10=3.16...という比率だ。これも悪くない。こうすると、円錐の高さがぴたり3になり、底面の半径を1として、体積がちょうどπになる。

しかし、もっと単純に3とするのが、やはりすっきりときれいである。扇形の内角も120度でわかりやすいほかに、半径が同じ球と表面積(円錐面と底面の合計)が同じになる。
球と同じ表面積の円錐
半径と表面積が同じ球と円錐

歌の中にも円錐がでてくるものがあった。

林道に青鳩が鳴き十和田湖の円錐空間に雲が湧き立つ

ほぼ円形の湖を円錐の底面として、その上空に大きな円錐を描いたということか、巨大なスポットライトのような情景が目に浮かんだ。ただし、十和田湖を確認してみると、より円形と言えるのは田沢湖で、十和田湖は、M.C.エッシャーのモノグラム(サイン)のEの字のようなかたちである。

この歌集には、次の、数学を詠んだ歌もあった。

数学はきれいと教えてくれたひと壜底めがねの上原早霧(うえはらさぎり)

上原早霧という美しい名は、架空なのか実在なのかと検索すると、数学オリンピックの出場者にその名があり、スポーツデータの解析を行う会社・データスタジアムで活躍している研究者になっているひとだった。小島さんと同年代の若いひとだ。小島さんの歌には、この歌の他にも、陸上の桐生祥秀氏の名前をそのまま詠んだものなどもあるので、ニュースなどで見た名前なのだろう。小島さんから上原さんへの、異なる方面での才能への畏敬と解釈できるが、壜底めがねという強い表現からは、アイザック・アシモフのエッセイ『無学礼賛』(『生命と非生命の間』山高昭訳、所収)も思い出した。

アシモフは、そのエッセイで、眼鏡をかけた女性がそれを外すと魅力が増すというハリウッドの類型描写を痛烈に批判している。眼鏡が女性の魅力を損なうという考えは、「教養が目立ちすぎると社会で邪魔になり不幸をもたらす」「知性の発達がおさえられれば幸せがくる」ことを示す悪習であると断罪する。アシモフ自身も度の強うそうな眼鏡をかけていたので、その意味での恨みもあったのだろう。

眼鏡といえば、感染症の緊急事態がとりあえず解除されて、眼鏡店が営業再開するのを待って、眼鏡をあたらしくつくった。緊急事態中、横づらを車の窓にぶつけて、眼鏡のツルの先の樹脂の部分が割れてしまっていたのだ。その部品は交換すればよいとして、長年使ってレンズやフレームに細かな傷もあるので、あらたにもうひとつつくることにした。遠近両用眼鏡は、振り向いて後ろを見たとき(車のバックなど)に、顎が上がって近距離焦点部分で見てしまい、視野がぼやけることがある。これに対応するには、意識的に顎をひくとよいのだが、いつもうまくできない。窓に顔をぶつけたのも、横を向いたときのフォーカスのずれだと思うが、いずれにせよ、加齢ゆえなので気をつけなくてはならない。

とまあ、話があっちこっちに飛んでいるが、『展開図』には眼鏡を詠んだ歌もあった。

甲虫の肢(あし)内側に折るように眼鏡を畳むきょうの終わりは

小島さんも眼鏡をかけているのだろうか。それにしても、眼鏡のツルが昆虫の肢に似ているというのは、膝をたたきなるような見立てだ。甲虫ではないが、先日見た、アカスジキンカメムシの肢もまた、金属光沢で眼鏡のツルみたいだった。アカスジキンカメムシは、とくに珍しい虫ではないはずだが、歩く宝石とも呼ばれ、ひさびさに見た。
アカスジキンカメムシ

眼鏡店での視力検査のさい、小さなカタカナのほかに、気球の映像が映る機械も用いた。これで視力がわかるのですかと訊くと、「だいたいはわかります」との回答だった。原理をあとで調べると、無限遠を見るような映像 -地平線まで続く道の果てに見える気球- を見せ、水晶体に赤外線をあてて屈折状態を見る機械ということだった。この映像については、伊波真人さんによる、次の歌がある。

眼鏡屋で視力検査のとき見える気球の浮かぶ場所にいきたい

彼の歌集は手元になく、この歌はたまたま知ったのだが、一度読むと、あの機械による視力検査のたびに思い出すのが必至となる。なお、伊波さんの歌は、4月末に出た『しししし』の3号にも載っていた。『しししし』は、「双子のライオン堂」書店さんが年に一回刊行している文芸誌だ。

その、「双子のライオン堂」書店が、『本の雑誌』7月号の連載『本棚が見たい!』に、店主の竹田信弥さんの笑顔の写真とともにとりあげられて、ページをめくって「おっ」と声をあげてしまった。
「双子のライオン堂」(『本の雑誌』より)と『しししし』3号

『しししし』3号はサリンジャーを特集としているのだが、『展開図』の小島さんの第二歌集の題名は『サリンジャーは死んでしまった』という。

というような、若干のシンクロニシティじみたこともあったので、『しししし』を再度宣伝しておく。同誌は、小説、評論などのほかに、上記にように短歌も載っている文芸誌で、大槻香奈さんの装画による表紙もクールだ。

なぜかそこに、わたしの文章も載っている。しかも、専門の折り紙にも、仕事の天文にも直接関係がない、サリンジャーについての文章だ。以前、『折る幾何学』に関するイベントを双子のライオン堂さんでした縁だが、どこにいても場違いな感じがするわたしの有り様がにじみでている。

菫程小さき人に生まれたし2020/05/30 21:14

◆錐面の接続
「超立体」という商標のマスクは、超立方体(四次元正八胞体)とは関係はなく、ふたつの錐面の接続である。
錐面の接続

◆Funghetto
ドラゴンポテト
コンビニエンスストアで、「ドラゴンポテト」というスナック菓子に遭遇した。「"カリッ"と"サクッ"の3D食感」とのキャッチコピーがあり、「3D食感ってなんぞ」と思ったものの、面白いかたちであることは間違いない。ただ、これは独自のものではなく、フンゲット(イタリア語でキノコの意味)というパスタと同じ曲面である。

Funghetto曲面
この曲面はどうなっているのかと、数式をつかって描いてみた。パスタの形状を幾何学的に解析する『Pasta by Design』(G. L. Legendre)という本があり、欲しいと思いながらまだ入手していないのだが、フンゲットも載っているのかどうか、とても気になっている。

◆渡らないジョウビタキ
オレンジ色が目立つ小鳥がいて、ヤマガラにしては鮮やかだなと思ったが、黒い羽の白いワンポイントなどから、ジョウビタキ(♂)であることがわかった。図鑑によると、夏にはロシア方面に渡る、いわゆる冬鳥のはずなのだが、鳴き声からも間違いなくジョウビタキである。火打石に似る鳴き声からヒタキ(火焚き)と名づけられたという説もあるようだが、バードコールの「キッ」という摩擦音が一番近い。昨年まではこの声を聞いた記憶がなく、なぜ冬鳥が夏にいるのか、帰りそこねた『幸福な王子』の逆バージョンかと心配したのだが、この10年、北に帰らずに留鳥となり繁殖している観察例が多いそうで、研究者や日本野鳥の会も注目しているらしい。
ジョウビタキ

なお、昨日求めた『俗信の辞典 動物編』(鈴木棠三)には、「ヤマガラの少ない年は流行病が多い」云々と書いてあった。しかし、ヤマガラも普通に来ているのであった。まさに俗信である。

◆タンポポの綿毛
タンポポの綿毛
タンポポの綿毛を多面体として見ると、「4価頂点」が目立っているということに気づいた。あらためて考えてみると、花は球状ではないのに、熟してくるときれいに球状になるというのも面白い。花が終わったばかりの綿毛はゆるいドーム状で、段階を追って球状になる。球状になる意味で考えられるのは、風を受ける面積を増やすことや、散布を無方向にするといったことだが、どうなのだろう。上述のように、種の幾何学的な配置も面白いが、これは、りんごの皮むきというか、下図のように、球面状の螺旋のそって等間隔に種が並んでいるように見えなくもない。(追記:この構造は、ヒマワリで有名な螺旋の重なった花序とも類似している。じっさいはそちらの構造なのだろう)
タンポポ種子の配置の推定

◆スミレほど小さき人
タチツボスミレ
スミレを見ると、漱石の句が思い浮かぶ。

菫程小さき人に生まれたし

気難しいおじさんという漱石のイメージゆえか、スミレと言っても、宝塚的、星菫派的なきらきらしたものではなく、幻覚のような奇妙な味がある句だ。英国で妖精の話を見聞きしたことが影響しているのかもと思ったが、渡英の前の句で、コナン・ドイルも騙されたという「コティングリー妖精写真事件」もずっと後年のことであった。

『幻覚の脳科学 - 見てしまう人びと』(オリヴァー・サックス著、大田直子訳)によると、偏頭痛は、小人が見える幻覚を伴うこともあるらしい。偏頭痛持ちのルイス・キャロルが、『不思議の国のアリス』において、身体の拡大縮小を描写したのは、その影響ではないかともいう。ということで、漱石の小人感覚も偏頭痛のためか!と思った。芥川の歯車の幻覚が「閃輝暗点」の典型的な症状であることはよく知られているが、「スミレほど小さき人」は、その漱石版ではないか、と。しかし、漱石の愁訴は胃痛と肩こりと追跡妄想で、書簡等をつらつら見ても、比喩としての頭痛はあってもじっさいの頭痛の描写は見当たらないのであった。