高槻市など2019/03/26 22:24

◆高槻市
カトリック高槻教会
先々週、折紙探偵団関西コンベンションに参加するため高槻市を訪れた。会場だった高槻現代劇場・文化ホールの隣にあるカトリック高槻教会のドームが、ブルーシートに覆われていた。昨年6月に最大震度6弱を記録した大阪北部地震の被害と思ったが、同年9月の台風21号の被害であった。高槻市では、ほかにもまだブルーシートを被った屋根が見えた。地震のことは頭にあって、開式の挨拶でもすこし触れたが、関西空港で大きな被害の出た台風21号の被害は頭から抜けていた。次から次の新しいニュースで、災害のことは忘れられてしまうことが多い。しかし、当事者には現在も続く被害である。

ねじりまんぽ
ねじりまんぽ
京都東部、蹴上にある、傾斜鉄道(インクライン)の下を通るトンネル・通称「ねじりまんぽ」。螺旋(ヘリックス)状のレンガの積みかたが面白い。折紙探偵団関西コンベンションに参加したさい、前日が京都泊だったので、夕方に南禅寺近辺を駆け足で観光した。
水路閣
水路閣周辺は、フォトジェニックなショットを狙う若いひとでいっぱいだった。

堀内正和展
堀内正和展
忙中の合間に時間をひねり出して、神奈川県立近代美術館葉山で開催されていた「堀内正和展」に行ってきた。堀内ファンを自認するのに、会期にぎりぎり間に合ったかたちだった。2016年に出たわたしの『折る幾何学』には、堀内さんの彫刻からインスパイアされたモデルがあり、『本格折り紙』のエピグラフには氏の言葉を使った。写真は「ななめの円錐をななめに通りぬける円筒」。この展覧会は撮影が自由であった。

フリードリヒというか植田正治というか
葉山海岸にひとり
葉山の海岸で、カスパー・ダ-ヴィッド・フリードリヒの「海辺の僧侶」みたいでもあり、植田正治さんの写真みたいでもある画が撮れた。春の海岸は、家族づれやカップルも多かったが、ひとりで歩いているひとのほうが画になる。空に薄く「天使の梯」も見えて、よりフリードリヒ(レンブラント的でもある)らしさを演出している。沖合の小さい船影はないほうがよいが、しかたがない。

ダンシングバグなど2019/03/19 22:28

ブログの更新が1ヶ月あいた。なんだかんだ多事多端で、あっという間に日が過ぎてゆくのだが、それでも、日々しょうもないことも考えている。

◆ダンシング・バグ
先週参加した折紙探偵団関西コンベンション(関係者のみなさま、お疲れ様でした)の懇親会のビンゴに当たり、ブルートゥースのスピーカーをゲットした。直径3cmぐらいのちいさい円筒形で、振動面が上向きにむき出しになっている。ふと思って、約4cmの小さい紙で虫を折って、上に置いて鳴らしてみたら、これがかなり面白い。
ダンシング・バグ

こちらの動画をどうぞ。

◆マイナスの郵便切手
額面がマイナスの切手というのはどうだろうか。

デザインの気にいった82円切手を絵はがきなどに貼りたい。しかし、そのままでは20円がもったいない。そのとき、-20円切手を貼る。郵便局の窓口でこれを求める場合、切手とともに現金も受け取るわけである。手数料その他で、1枚マイナス18円などでもよい。

マイナス20円切手

「-20円切手を10枚ください」
「はい。マイナス切手10枚と180円です。マイナスの領収書も必要ですか」

実現されないと思うけれど。

『折紙歌合 拾遺 其の二』など2019/02/21 20:23

新作が、2/23(土)22:45-23:00に放映される。 NHK Eテレ。
今回は、布施知子さんの「うさぎ」のようだ。

◆『折紙歌合 拾遺 其の二』
『折紙探偵団 171』『折紙歌合- 折り紙が詠み込まれた短歌と俳句 -』を書いてからも、名づけて「折々の歌探索」を続けている。このブログや『折紙探偵団 173』のエッセイでもすこし触れたが、いくつか紹介しよう。

をさな子に鶴の折り方示しをりあはれ飛べざるものばかり生む 安田百合絵

『折紙歌合』で紹介した、赤尾兜子さんの句「帰り花鶴折るうちに折り殺す」も連想するが、優しい視線も感じることができる歌である。

折鶴の天より降(くだ)るこゑは地にあふれて白き木蓮となる 春野りりん

こちらは、服部真理子さんの「白木蓮(はくれん)に紙飛行機のたましいがゆっくり帰ってくる夕まぐれ」と類想だが、どちらもとてもよい。

折ればより青くなるからセロファンで青い鶴折る無言のふたり 兵庫ユカ

セロファンの折鶴といえば、広島の佐々木禎子さんが千羽鶴を折るきっかけになった、愛知淑徳高等学校の少女たちによる見舞いの千羽鶴(五千羽、あるいは、四千羽)がそうで、禎子さんもセロファンで折っていたことが知られる。折鶴は、紙の重畳が秩序だっているので、半透明の素材で折っても美しい。青い折鶴ということでは、次の歌もそうだ。

わたくしをすべてひろげて丁寧に折りなほす青い鶴となるまで 荻原裕幸

自分自身を広げて折りなおすという発想は、ありそうでなかった。そう、ひろげられるように、折り紙作品は、なるべく糊付けしないほうがよいのである。

イスタ・ビエンナーレなど2019/02/18 21:18

2/24(日)13:00-15:00、府中市郷土の森博物館で、「椿」を講習します。
椿

いりや画廊(東京都台東区北上野)で開催される、イスタ・ビエンナーレ「サイエンス・アートの饗宴」に出品します。
2/25(月)-3/2(土)11:30-19:30(最終日16:00)
イスタ・ビエンナーレ「サイエンス・アートの饗宴」3

『数学短歌の時間』2019/02/17 19:31

『数学セミナー』の投稿短歌の連載、『数学短歌の時間』(横山明日希さん、永田紅さん)が3月号で終了した。ほぼ生まれて初めて真剣に作歌し、紙鶴(最初の数回は紙鶴翁)の筆名で毎回数首を投稿した。毎号とってもらったのだから、上出来である。

作歌にあたっては、ものの見かたに数学らしさのある歌、明晰な歌ということを念頭におき、数学が好きであるという真情を込めた。

が横山明日希さん(数学のお兄さん)、が永田紅さん(歌人、生物学者)の選歌である。選にかからなかったものも当然あり、読み返すと、なんでこれを送ったのかというものもあったが、お気にいりのものもあるので、わがままに、それらも記録しておく。とはいえ、選者の判断に容喙したい気持ちはない。投稿してみて腑に落ちたのは、投稿という場では、送って読まれて選ばれるか否かもコミュニケーションであるということだった。読んでもらえるので、それ自体がたのしみであり、評がうれしかった。

◆2018.6 「題:ベクトル」
◇壁にある時計の針のベクトルはゼロにはならず我を追い立つ

のどかなる春の陽のさす小庭にも数多に満ちる力のベクトル

掃き清むブラシによりてベクトルのたくみに変わるカーリング石

◆2018.7「題:ピタゴラス」
◇万物は数と言うのかピタゴラス風も夜空も我も彼女も


五と十二 十三並べピタゴラス 足して三十ひとつ足らず か
(すこし修正)

ピアニズム高き音(ね)低き音轟たる音籟(らい)たる音にも数式ひそめる

◆2019.8「題:帰納法」
◎◇「一つ落ちて二つ落たる椿哉」子規のこの句は帰納法かな

◇帰納法証(あか)すところをひと問わば塵が積もれば塵の山とな

◆2018.9「題:写像」
◇「筆舌に尽くし難し」も言葉ゆえ世界のすべては言葉に写像す

◆2018.9「題:素数」
◎五五五五五七七七七七七七五五五五五七七七七七七七七七七七七七七

◆2018.9「自由題」
ピタゴラスエラトステネスアルキメデスエウクレイデスオソレイリマス

◆2018.10「題:集合」
◎英文で「neither A nor B」書くときはいつも頭にベン図浮かん


(投稿しなかったもの)
アウディのマークベン図じゃありませんベンツもベン図じゃありません

◆2018.10「題:無限」
「この歌」は果てなく続く歌である全文カッコに代入せよ

石川の浜の真砂は有限ですアルキメデスと五右衛門の説

◆2018.10「自由題」
わずかこの数百ビットの情報で恒河沙とおり歌の不可思議

◆2018.11「題:平均」
◎絶対の音感などと言うけれど平均律は近似計算


時が降り平均されて薄れゆく誰も知らない特別な日々

◆2018.11「題:複素数・虚数」
◇窮屈なリアルがとても苦しくてイマジナリーよ世界広げて

共役で結ばれている数ふたつ実数軸は越せない銀河

◆2019.12「題:位相」
◎ひねくれて穴を抱えた君だけど裏を持たないメビウスの帯

数学(きみ)の言う位相の意味はトポロジー物理(ぼく)はフェイズで位相が違う

◆2018.12「題:関数」
あめつちのみそひともぢの多変数関数としてうたのうまれる

次々と波動関数収縮し未来が過去になって退屈

◆2018.12「自由題」
◇連続で微分可能な日常にたまに小さな特異点あれ

◆2019.1「題:対称」
(鏡映対称)
◇数学や物理の理屈蜜の園罪作りの理呟くガウス
(すうがくやぶつりのりくつみつのそのつみつくりのりつぶやくがうす)

(回転対称)
ふたつのユ組んで互(たがい)を支えるが己(おのれ)はひとり己(おのれ)をめぐる

(並進対称)
煉瓦積みカベ煉瓦積み煉瓦積みカベ煉瓦積み煉瓦積みカベ

(鏡映対称)
早苗並山谷畳畳西東一里小景普天泰平
(さなえなぶさんやじょうじょうにしひがしいちりしょうけいふてんたいへい)

◆2019.1「題:最大値、最小値」
◎最小の表面積は冷えにくい猫の界面ほぼ球となる

比較などできないことが多いのにみんな言います「最高です」と

◆2019.2「題:証明」
反省ができないことの反省は証明不能の証明に似て

Q.E.D.示す暮石の記号には打ち捨てられた思索も眠る■

◆2019.2「題:微分、積分」
◇ゆらゆらとゆれるあなたの黒髪は微分可能な曲線である

(宇宙電波観測所にて)
観測の積分時間長くして微かに響く星の産声

◆2019.2「自由題」
◎大嫌い数学なんてときみは言うわたしは数学(それ)に救われました

◆2019.3「公理・定理」
定理なら「カラテオドリの定理」でしょ「驚異の定理」も捨てがたいけど

◆2019.3「原点」
◎◇だれもみな自分の位置が原点で観測座標もつれ絡まる

仰ぎ見る銀河座標の原点(オリジン)の彼方にひそむブラックホールよ

◆2019.3「自由題」
永遠の女神の笑顔を幻視して片恋なれど数学が好き

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短歌という制約の上に特殊な題詠という制約もあって書けたものである。パズルの解答としての三十一文字だ。これは、ことさらに卑下しているのではなく、短歌の形式性ゆえのハッキングの面白さに惹かれ、それがモチベーションのひとつになった、ということである。

作歌することで、短歌への親しみはいや増したのだが、最終投稿から2ヶ月あまり、ひきつづき詠みたいという気持ちは淡いもので、自分でつくるよりも、ひとの歌を読んで、その中に好きなものを探すことのほうがたのしそうに思える。

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最近「これは!」と思った「数学短歌」は、『しびれる短歌』(東直子、穂村弘)で知った以下の歌である。

(7×7+4÷2)÷3=17 杉田抱僕
(かっこなな かけるななたす よんわるに かっことじわる さんはじゅうなな)

あははは。なんだ、これ。いわゆる「偶然短歌」ともすこし違う。こういうのも詠みたかった。真似てみた。

n(n+1)/2=自然数の和
(えぬかっこ えぬぷらすいち かっことじ わるにいこーる しぜんすうのわ)

少年時代のガウスの神童的解答を讃頌する歌のつもりだが、衒学的で、杉田さんの歌の面白さには及ばない。『しびれる短歌』に穂村さんも書いていたが、杉田さんの歌は、「かっことじわる」のリズムがすばらしい。

こうした「数式」そのままの短歌は、和算書にもある。『因帰算歌』(今村知商、1640)や『算法勿憚改』(村瀬義益、1673)に見られるものだ。たとえば次である。

圓径に三一四一六かけ廻廻をわりて圓径と成
(ゑんけいに 三一四一六 かけまはり まはりをわりて ゑんけいとなる)
『算法勿憚改』国文学研究資料館)より)

小数点5桁が四捨五入され、そして得られた5桁、三一四一六をどう七音で読むのかよくわからないが、それはおく。短歌としてどうかというと、これはつまり、「歌って覚える、よく出る公式」である。どこにも詩はない...ように思える。しかし、見ていると、これはこれで味があるような気もしてくる。現代語にすると、その妙な味がわかりやすくなる。

直径に3.14掛け円周それで円周割れば直径
 (超訳『算法勿憚改』)

円周率の値よりも、上の句と下の句がただの「式の変形」になっている同義反復がなんとも言えない。奥村晃作さんの歌、たとえば「 次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く」にあるような、「ただごと」感が醸されている。あまりに意味が明確だとむしろ意味が剥ぎ取られる感じがする、あれだ。それは、数学というものの手触りにも近い、かもしれない。

月球儀とアポロ11号2019/02/11 16:15

今年は、アポロ11号の月面着陸から50年で、それを描いた『ファーストマン』という映画も公開されている。
月球儀
写真は、姫路科学館の安田岳志さんが作成した、アポロ11、12、14 - 17号の着陸地点を示した月球儀である。同館のイベントなどで使われる予定と聞いている。ベースになった2枚組みの立方八面体が、わたしの『折る幾何学』に掲載されている「地球儀」を元にしたものなのだ。アポロ計画といえば、先日読んでいた香川ヒサさんの歌集に、こんな歌があった。

飛行士の足形つけてかがやける月へはろばろ尾花をささぐ

萬葉の昔から歌に詠まれてきた月に、消えることのない足跡がついてるというのは、かえって一種の風流だ。古人は想像していなかったことだが、古人といわずとも、1932年、『月と人』という随筆(柴田宵曲、『団扇の画』岩波文庫収録)にも、こう書かれている。

近代人と月の関係について、もう一つ考慮すべきことはいわゆる科学思想の普及である。死灰の如き一衛星として見る月は、自(おのず)ずから古人眼中の月と異らなければならない。或る人がいったように、菜圃(さいほ)に翩々(へんぺん)たる蝶も、その卵を産みつけに来るのだと思えば、むしろこれを追払う必要があるかも知れないが、世の中はそれほど行詰らずとものことである。いくら月の正体を究明したところで、南極や北極のように探検するわけには行かないから、「人(ひと)明月の攀(よ)ずること得べからず」ことに変わりない。柳は緑、花は紅と見るのが禅家の面目であるならば、月はただ月として見たらどんなものであろう。

ひと明月の攀ずること得べからず」というのは、李白の『把酒問月』(酒を把つて月に問ふ)の一節である。一千年以上前の詩人が月を見上げたとき、それはたしかに遥か手の届かない天空にあった。しかし、この詩句を引用した随筆からわずか37年後、人は月に「攀じ登り」、実地で死灰の如き衛星を探検した。

1930年代は、のちにアポロ計画の重要人物となるフォン・ブラウンが、ロケットの飛行を成功させた年代であり、ツィオルコフスキーが宇宙旅行の科学的な夢を描いたのはそのさらに30年前である。人類は、宇宙に手を伸ばしつつあった。とは言え、宵曲居士の想像力が足りなかったということを強調しようとして、上の文章を引用したかったわけではない。20世紀初頭の技術の発展の速さに驚くのである。

飛行機の発明がそのわずか30年ぐらい前だというのに、第二次世界大戦では、V2ミサイルが迎撃不可能な超音速で街を襲い、そこから25年後に月に人を送った。これは、なかなか想像ができるものではない。先見の明のあった科学者でもそうだったと思われる。たとえば、寺田寅彦の『天災と国防』(1934)という随筆がある。これは、いま読んでもきわめて示唆に富む内容だが、そこに、「太平洋上」の「浮き観測所」が「五十年百年の後にはおそらく常識的になるべき種類のこと」との記述があり、別の意味で考えさせられる。洋上の観測はいまでも海洋気象ブイなどで重要だが、一面でこの記述は、さすがの寅彦も気象衛星による観測を想像していなかった、とも読めるのだ。

1969年、わたしは、理科少年だったので、月着陸船のプラモデルをつくり、少年少女向けのフォン・ブラウンの伝記を読んだ。伝記は、宇宙旅行に憧れたフォン・ブラウンが、それを一心に追い求めたことを強調していたが、V2開発への関わりの記述もあった。それを読んだわたしは、ロケット開発のきっかけのひとつは兵器開発にあったのかと、日本軍の兵器として生まれた『鉄人28号』に重ねあわせて、複雑な気持ちになった。同じころ、石森章太郎さんの『サイボーグ009』を読んで、そこで語られる宇宙開発が戦争と深く関係しているという話にも、少年ながら蒙を啓かれた。

映画の『ファーストマン』では、星条旗を立てるシーンがないことに、愛国者たちが文句を言っているそうだ。アポロ11号が立てた星条旗では、必ず思い浮かべる言葉がある。わたしがそれを読んだのは、月着陸からさらに10年以上たってからであったが、花田清輝さんの書いた『月のいろいろ』というエッセイの結びの言葉である。

べつだん、わたしは、月ロケットを打ち上げることに反対ではない。ただ、わたしは、わざわざ、月まで出かけていって、国旗をたててくる習慣だけはやめたほうがいいような気がしてならない。それでは、せっかくの月が、お子様ランチに似てくるではないか。

香川ヒサさんの歌2019/02/06 20:38

短歌集『香川ヒサ作品集』を読んでいたら、こんな歌があった。

一本の線と見えつつ平面をおほひ尽くせり雪片曲線
これは誤解を招く。『フラクタル幾何学』(ブノワ・マンデルブロ著、広中平祐監訳)に、「雪片掃過」(the snowflake sweeps)という、ペアノ曲線の雪片曲線化とでもいうべき、平面を充填する図形があるので、間違っていると言いきってしまうのは早計ではある。その図は、カバーをとると、同書(原書のほう)の表紙にも描かれている。しかし、いわゆる雪片曲線(コッホ曲線)は、平面を埋めるものではない。
『自然のフラクタル幾何学』にある「雪片掃過」
『自然のフラクタル幾何学』にある「雪片掃過」

テープでつくったコッホ曲線
テープでつくったコッホ曲線(雪片曲線)(ステップ2)

輪郭がコッホ曲線になる折り紙には池上牛雄さんのものがあるが、折り畳みに関連している自己相似図形には、だれにでも簡単にできるドラゴン曲線というものもある。これは、案外知らないひとも多いようなので紹介しよう。
ドラゴン曲線
ドラゴン曲線

テープを同じ方向に何度か畳んで(写真左上)、できた折り目を直角に開く。これを小口から見ると、うねった龍になる(写真左下)。このかたちは、タイルのように平面を埋めていくことができる(写真右)。

なお、この歌集の紹介として、上の粗探しみたいな感想だけではもったいないので、好きな歌をいくつか引用させてもらう。

角砂糖ガラスの壜に詰めゆくにいかに詰めても隙間が残る 香川ヒサ
二つとも旨いそれとも一つだけまたは二つともまづい桃二個 同
神はしも人を創りき神をしも創りしといふ人を創りき 同
人はしも神を創りき人をしも創りしといふ神を創りき 同
一冊の未だ書かれざる本のためかくもあまたの書物はあめり 同
中空を流れゐる雲鯨にも鰐にも見えず何にも見えず 同
聖堂の丸天井を支へをり一挙に崩れるための力が 同

角砂糖を壜に詰めるのがうまくいかないというのは、わたしも、子供の頃、どうやったら一番多くきれいにはいるかと苦闘した記憶が鮮明にある。

『いちめんのなのはな』と『いちぐうののぶどう』2019/01/29 20:03


『いちめんのなのはな』と『いちぐうののぶどう』

布施知子さんから、平織り作品ふたつを手にいれ、額装した。いずれも、手染めの和紙を折ったものだ。もともと題名はついていおらず、そもそも具体的ななにかを表現したものではなかったのだが、布施さんとも相談して、色とかたちの印象から、『いちめんのなのはな』『いちぐうののぶどう』と題した。『いちめんのなのはな』は、もちろん、山村暮鳥の詩からとったものである。

『純銀もざいく』

『黄金もざいく』

「いちめんのなのはな」の「本歌取り」として、「いちぐうののぶだう(のぶどう)」をつかった詩も考えた。まず、「一隅」なので、「いちぐうののぶだう」は、詩句として一回のみにして、ほかは「ゆうぐれのそまみち(夕暮れの杣道)」で埋めた。元の詩で聴覚に訴える句は、やはり音を示す句にした。「かすかなる雁が音」と「小牡鹿(さをしか)の鳴く声」である。「小牡鹿」はすこし耳慣れない語で、文字数がうまく合うものが浮かばなかったからだが、きれいな言葉である。

『いちめんのなのはな』は、文字を視覚的に扱う「コンクリート・ポエトリー」の先駆とも言える詩である。『いちぐうののぶだう』を「ゆうぐれのそまみち」で埋めたのは、菜の花がであるのに対し、杣道がであるという理屈である。それを表現する記法として、文字のつながりを牛耕式の九十九折りにすることも考えたのだが、読めなくなるのでやめた。やめたのだが、これは、面ではなく線なのである。さらに、を対照させたのは言わずもがなだが、風景の基本も、として対比させた。

『いちめんのなのはな』は、たいへんわかりやすいように見えて、「病めるは昼の月」という句の負の印象と、純銀もざいくという題辞の謎が気にかかる詩でもある。諸説あるようだが、なにが銀なのかは謎のままにして、対照させて、題辞は『黄金もざいく』とした。

そして、布施作品の額の色は、さらに反転して、菜の花が金色、野葡萄が銀色になっている。

『いちめんのなのはな』と『いちぐうののぶどう』など

紙のフチなど2019/01/25 20:22

◆冬ひでりと紙のフチ
東京の1月の降雨量がわずか0.5mmだという。季語に冬旱(ふゆひでり)というものがあるが、まさにそれだ。寒旱ともいう。この季語は次の句で知った。

指切りし紙の白さや冬旱 保坂敏子

保坂さんは山梨のひとのようだが、山梨も基本的に冬は乾燥している。紙の繊維が乾燥すると、硬度が増し、断面の鋸歯状の構造が際だって、指を傷つけやすくなるのだろう。折り紙用紙も、それで指を切ったことはないが、パリパリしていて裂けやすくなっている。

紙で指を切る話に関連しては、川村みゆきさんが、「紙のフチ恐怖症」で、それを隠すためにも紙は折りたくなるんです、ということを言っていたことを思い出す。いまは以前ほどでもないとも聞いたが、あまり聞いたことのない「恐怖症」である。ここで問題。

問題:正方形の紙を平坦に折って、紙のフチを完全に隠すには、最小で何工程が必要か。なお、輪郭線上に、下位の層を含めて、フチが1点でも接する場合も、隠しきれていないとする。

新作が、1/26(土)22:45-23:00に放映される。 NHK Eテレ。
川崎敏和さんの作品がでてくるらしい。

百合鴎、鴫、凍鶴2019/01/23 20:55

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白き鳥の嘴と脚と赤き しぎの大きさなる 水の上に遊びつつ魚を食ふ 京には見えぬ鳥なれば みな人見知らず 渡し守に問ひければ これなむ都鳥と言ふを聞きて
名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり

『伊勢物語』のこの段、都鳥の名で京を偲ぶ話は有名だけれど、あらためて考えると、「京には見えぬ鳥」(みやこにはいない鳥)が、なぜ都鳥という名前なのか、謎である。実は、渡し船の船頭さん、適当なこと言ったんじゃないの。
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先日、塚本邦雄さんの『秀吟百趣』を読んでいて、この疑問がぶりかえした。同書に、富安風生さんの句「昔男ありけりわれ等都鳥」が挙げられており、その「本歌」である『伊勢物語』のこのくだりが「簡潔で意を盡した文は絶品に近い」と絶賛されていたのだ。しかし、やはりわたしは、上の疑問が解消できないので、古典中の古典と言っても、すんなりと鑑賞できないのであった。

この問題に関して、平安時代の坂東では、鴎のたぐいを総じて「みやこどり」と言っていたのではないか、という説がひらめいた。なぜそう呼ぶのか。「みゃーこ」と鳴くからである。あはは。ウミネコが、その名のごとく猫のような声でなくのはよく知られたことだが、調べてみると、都鳥の正体とされるユリカモメも、やや濁っているが、似たような声で鳴く。『声が聞こえる野鳥図鑑』(上田 秀雄、 叶内 拓哉)で調べたので間違いない。他の鴎も同様で、みゃあみゃあ、ゐあゐあと鳴く。太宰治が『鴎』『火の鳥』の中で、「鴎は、あれは、唖の鳥です」と書いているが、じっさいの鴎はよく鳴く。いざこと問はむみゃーこどり。岩手県の宮古という地名は、中世以前の記録にはないそうだが、同地の浄土ヶ浜は、いつからかは知らないが、ウミネコの繁殖地のひとつで、いまは市の鳥にもなっているので、地名の由来に関係があるかもしれない、などとも想像する。

これでわたしは納得だったのだが、調べてみると、とくに新説というわけではなく、鳴き声からみやこどりと呼ばれるという話は、すでにあった。たとえば、幸田露伴は、最晩年の一書『音幻論』(1947)にこう記している。

あの伊勢物語の業平の歌の都鳥は、都の鳥の意味ではなく本来はミヤとなく小鳥の意味で、都の字を填したのは歌の上での作略で業平以前に萬葉集巻二十に、大伴宿禰家持、舟競ふ堀江の河の水際に来居つつ鳴くは都鳥かも、の一首が存する。

そして、耳にはさんだことがあったが、都鳥にはもうひとつややこしい話がある。ユリカモメとは別の都鳥がいるということだ。チドリ目チドリ亜目のミヤコドリである。これは、すくなくとも近世には都鳥と呼ばれていた鳥で、主にキュピッと鳴く。この鳥がなぜ都鳥なのかは、「みゃーこどり」説では説明がつかない。腹は白いが全体に黒く「白き鳥」とは言えないことなどから、『伊勢物語』の都鳥ではないとする説が有力だが、これこそが、業平の都鳥とするひともあり、それもあって、その鳥の現在の和名がミヤコドリになっている。たとえば、幕末の『都鳥考』(北野鞠塢、1814)は、「飛ヲ下ヨリ見レバ白キ鳥ニ見ユ」とか、「くの字を筆意によりて し とも違ひ」と記し、この鳥を業平の都鳥に比定しようとしている。しかし、『都鳥考』を意識した、のちの『都鳥新考』(熊谷三郎、1944)は、これらの説を「雪を炭と言ふ譬」として退ける。じっさい、背中の黒いミヤコドリは、『伊勢物語』の都鳥ではなく、逆に『伊勢物語』『萬葉集』を元にした話が錯綜して、この鳥がそう呼ばれるようになった、と考えるほうが理が立つ。ちなみに、『都鳥新考』の序文は露伴が書いていて、これは『音幻論』の執筆時に重なるので、露伴の文章も『都鳥新考』を参照してのことと思われる。戦争中、時流にそぐわない英文の引用もある『都鳥新考』なる本を上梓した、熊谷三郎さん(1896-1954)というディレッタントじみた鳥類研究者のことは、とても気になる。

鳴き声も体色も違うが、ミヤコドリとユリカモメは、系統樹的にはチドリ目でまあまあ近縁だ。ひとことで水鳥といっても食性も異なるが、似たところはある。たとえば、水鳥は、雀の類や猛禽のような枝につかまる鳥と違って、垂直の細い足ですっと立つ印象が強い。鳥が飛ぶさまというのは、案外、画として思い浮かべにくいが、立っている姿は脳裏に浮かぶ。水鳥のそれは、姿勢よくまっすぐである。

などと考えているうちに、そのように、すっと立っている水鳥の折り紙を折ってみたくなったので、つくってみた。折鶴の基本形を丁寧に折るだけのモデルで、糊付け不要の構造とし、目安を明確にした以外に、アイデア、設計、技術のいずれもなんということはないものだが、姿勢よく立って、自然な立体感がでたので満足だ。鴎の脚には水かきがあり、鴫(しぎ)や千鳥にはなく、鴫や千鳥の脚のほうが長いので、どちらかというとその脚なのだが、いちおうユリカモメがモチーフである。水かきや爪をつくると、脚を細くできないのでやめた。
ゆりかもめ

さらに、鴫のお仲間ということで、西行の有名な歌が思い浮かんだので、できた折り紙作品を見ながら、古歌をもじって「心なき身にもあはれは知られけり都鳥たつ秋の夕ぐれ」と洒落たのだが、呟いてみて、ふと思ったことがあった。元の歌「心なき身にもあはれは知られけりしぎたつ澤の秋の夕ぐれ」の「たつ」は、「経つ(発つ)」、つまり、飛びたってゆくさまとするのが通説で、わたしもそう思ってきたが、鳥がじっと佇立していることの描写としてもよいのではないか、と。

思えば、西行の「心なき」と並べられる「三夕(さんせき)の歌」(『新古今和歌集』の秋の夕暮れを詠んだ三名歌)のひとつ、寂蓮の「さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕ぐれ」の「まき立つ」も常緑樹が立っているということで、定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ」もボロ家が立(建)っているということだ。「三夕」は後世の言なので、この三首に「秋の夕ぐれ」以上の共通性があるとも思えないが、羽音をのこして飛びたってゆくのではなく、凍ったようにただ立っている鳥という風情からもまた、あはれは知られるだろう。

とは言え、鴫や千鳥は泥をつついて餌をあさるので、せわしない動きをする。桟橋や浅瀬で佇む鴎のように、じっとはしておらず、長い脚で歩きまわる印象が強い。寂と騒の対照などと考えると、飛んでいったほうが劇的でもある。また、鴫は英語でsnipeである。「狙撃」と同じで、鴫は獲物を「狙撃」するのか、されるのかというと、狙撃されるほうで、鴫を狩る猟から、狙撃の意味でのsnipeが使われるようになったという。西行の時代にはむろん銃はないわけだが、snipeの語源を知ると、物音に驚いて飛び立つさまのほうが、鴫らしい気もする。

話がずれてゆくが、動かない鳥といえば、最近ではハシビロコウが有名だ。そして、俳句には「凍鶴」(いてづる)という季語がある。この言葉を奇想として使ったと思われる「折り紙関連句」も最近見つけて、これもかなり謎なので、その話も記そう。

折鶴のごとくに葱の凍てたるよ 加倉井秋を

わたしは、下向きの矢印が折鶴に見えてしまうことすらある折鶴好きだが、葱が折鶴に見えたことはない。尖った葱の葉先が折れ曲がっていると、折鶴の頭を連想しなくもないが、どうもピンと来ない。ということで、これは、数段の連想を経ての比喩なのではないかと考えた。凍鶴、すなわち厳しい冬景色の中にいる鶴の、典型的な図像のひとつは、一本の脚で立ち、もう一本の脚と長い首を翼の間に隠し、身じろぎもしないさまである。それは、一本の棒の上に綿毛がついたようなかたちだ。これは、葱の花、葱坊主に相似している。つまり、加倉井さんの句案は、葱坊主∽凍鶴→と鶴→の葉∽折鶴の頭という連想からきたのではないか、と想像したのだ。

凍鶴と折鶴では、次の句もあり、これまた気になるのだが、さらにわかりにくい。

クロイツェル・ソナタ折り鶴凍る夜 浦川聡子
 
ベートーベンのピアノソナタは好きな曲が多いが、ヴァイオリンソナタにはそういう曲がなく、さらに加えてクロイツェルソナタは、トルストイの同名の小説があって、どろどろの愛憎のイメージが強く、苦手である。ヴァイオリンソナタの演奏者が男女だった場合、それが不倫関係に見えてしまう責任を、トルストイには取ってもらいたい。といったこともあり、いろいろイメージがまとわりついていて、なんで折り鶴なのか、なにが凍っているのか、よけいにわからない。ヴァイオリンとピアノの音が響く冬の夜。冷え切った部屋に、誰がなんのために折ったのか、折鶴がある。音楽も折鶴も、本来はひとの気配を感じさせるものなのに、寒々しい。生演奏ではなく、ラジオかレコードで、部屋には誰もいない、とか。いや、やはり、わからない。わたしには、「手術台の上のコーモリ傘とミシン」的というか、三題噺のような句である。しかし、見過ごすことができない不思議さもある。