折り紙教室など2022/07/04 20:27

◆折り紙教室@府中
7/24(日)、10:00-12:00と13:00-15:00 府中郷土の森ふるさと体験館で、
「折り紙教室中級編 - クワガタムシを折ろう! -」という折り紙教室があり、
講師をします。
参加費は、300円(別途博物館入場料)で、事前の申し込みが必要です。
詳細は、ここからどうぞ。7/12(火)以降に電話で申し込みがはじまります。

クワガタムシ

むずかしいといえば、むずかしい作品ですが、根気よくていねいに折ることができるひとなら、ギブアップすることはないだろうということで、中級編となっています。
書籍などでは発表していませんが、好きな作品で、むずかしい折り紙にチャレンジしたいひとは、大人も子供もぜひどうぞ。

◆『呑川のすべて』
『本の雑誌』7月号のべつやくれい氏の書評で、『呑川のすべて 東京の忘れられた二級河川の物語 』(近藤祐)という本が上梓されていることを知り、早速買ってきて読んだ。この本の著者と同じく、少年時代に世田谷区と大田区の境界あたりを流れる呑川の近くで過ごしたので、その川の名前に反応したのである。そして、読んで驚いた。著者とは生年が同じで、通った小学校も中学校も同じだったのだ。著者が住んでいた家の近くの幼稚園は、わたしが通った幼稚園であった。

文中に記された土地の描写は、そうそうそうなんだというものばかりで、たとえば、大田区石川町の石川神社の脇から東京工業大学の隙間を通る道は、たしかに「探検」という名に相応しい佇まいで、異世界への通路を思わせた。などと懐かしくなったのだが、個々のエピソードにわたしの記憶と直接ぴったりと重なる思い出はなく、彼と同じクラスだったことはなかったようであった。小学校六年と中学校一年、わたしが父の転勤で茨城にいたということも関係しているのかもしれないし、中学校の卒業アルバムも引っ張り出してみたが、著者と同じ名前を見つけることができなかったので、生年は同じでも一学年異なるのかもしれない。

類書がないということだけでも得がたい本で、哲学者ガストン・バシュラールの引用なども衒学的なくさみはなく、新たに得た知識も多かったのだが、呑川を扱いながら『シン・ゴジラ』(庵野秀明監督)への言及がなかったことは不思議だった。カマタくんこと、かの怪獣の幼生が遡上するのが、この呑川の下流なのである。『呑川のすべて』の中で紹介されている観音政治という、著者が美術教師ではないかと想像するひとが描いた半世紀以上前の油彩画『新呑川橋』のアングルは、映画のシーンときれいに相似形なのに。わたしの年代は、庵野監督もまたそうであるように、幼いころに『ウルトラQ』『ウルトラマン』の洗礼を受けたのだが、近藤氏は、自由が丘にあった東宝の封切館でクレイジーキャッツの映画と二本立てになった『三大怪獣地球最大の決戦』は観なかったのだろうか。そして、庵野氏や樋口真嗣氏が少年時代の夢を実現させるように撮った新しいゴジラ映画には興味を惹かれなかったのだろうか。『シン・ゴジラ』で防衛拠点が設置された多摩川浅間神社に言及がなかったのも、そのためだろうか。少年時代の彼の行動範囲は、自宅より東側の大田区の洗足池方面で、自宅から南の多摩川浅間神社や、それに連なる多摩川台公園、田園調布の宝来公園などには馴染みがなかったことも関連しているのだろうけれど。

というわけで、近藤氏には、同時代アルアルで盛り上がるようなひととはすこしずれた、アウトサイダー的な雰囲気もあるのだが、それをかたちづくったかもしれない、微妙に周辺的(マージナル)な感覚は、彼自身も書いている。彼やわたしが通った東玉川小学校は、世田谷区と大田区の境界に建つため(校舎が世田谷区で、校庭が大田区にあった)、世田谷区立でありながら大田区からの越境通学の児童もいた。近藤氏の住所は世田谷区だったが、大田区から転校してきたこともあって、どちらかというと大田区に住む級友と仲良くしていたという。大田区といえば、高級住宅街の代名詞である田園調布の大半は大田区に属する。その町は、半世紀以上前から、野球選手や作家、政治家が住んでいたり、お嬢様学校があったりと、気どった街という雰囲気だったが、田園調布は世田谷とか大田というより「田園調布」で、全般には、世田谷区より大田区のほうが、いわゆる下町である。ここで下町というのは、商工業地域の意味だ。わたしの家のあった世田谷区の町はそういう町ではなかった。畑をつぶしてできた新興住宅地。商店も少ない純粋な住宅地で、住む者の多くは俸給生活者で、家族構成はサザエさん的なものであった。わたしの祖父は畑ばかりだった戦前にそこに越してきた。「近藤くん」は「わたしたち」のことを、土地の陰影が薄い、舞台じみた高台のほうに住むひとたちだと思っていたのかもしれない。

世田谷区に越してくる前は大田区の久が原に住んでいたということだが、久が原といえば、環状八号線建設のことも思い出す。わたしの家に近いあたりは、この道路の工事が比較的早く進んだ。工事中の道路は見たことのない広さで、そのガランとした空間は、工事が休んでいるつかのま、子供たちの遊び場になることもあった。ある日、この工事はどこまで進んでいるのだろうと、すこし先まで足をのばした。誰も誘わずにひとりで行ったように記憶している。すると、久が原に立ち退きを拒否した家があって、そこで道路がプツリと切れていた。わたしは、なんで?とは思わず、この家のひとはなんかすごいなと思ったのであった。

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