絶望名言2022/02/27 07:51

今晩というか明日というか、2/28(月)04:05、NHKラジオ『ラジオ深夜便』内の頭木弘樹さんの『絶望名言』で、『老子』二十章の前川の私訳が引用される。汗顔なのだが、ひょんなことでその訳を頭木さんが目にすることになった、という経緯である。

『月刊みすず』の2021年9月号の『空想の補助線7 単純にして超越』(前川)で、寺田寅彦が老子について書いた文章と「大方無隅」について、そして『老子』二十章に関して触れた。このエッセイの本筋は円周率についてだったのだが、わたしの文章は枝ぶりが錯綜しているのだ。

そこでとりあげた寅彦のエッセイは、ウラールというひとによる『老子』のドイツ語訳が妙に腑に落ちたという話である。古典というものは、解釈が的を射ているかは別にしても、訳が変わることで新鮮に受け取られることがある。その話題から、担当編集者の市原加奈子さんに、そのドイツ語訳を「それこそ頭木さんに重訳してほしい」ともらした。それが頭木さんに伝わり、わたしの「訳」も彼に伝わったのであった。ここでいきなり頭木さんの名前がでたのは、彼も『月刊みすず』に連載中で、担当編集者が市原さんだったからだ。

ラジオを聞いて検索をしてここを見つけるひとがいるかもしれず、当該エッセイでも『老子』二十章の私訳の全文は載せなかったので、以下に載せておくことにした。ただ、これはあくまでも、漢籍や古代中国思想にきちんとした識見を持たない者による訳であることは念頭において、興味を持ったひとは原典にあたってもらいたい。

理系の文学青年というか、モラトリアムのど真ん中にいた白面の書生、つまり、生白い青二才が、自分の可能性に行き詰まり、為しうることや自由に生きることついて悶々としていたとき、手にとった古典の中に身につまされる言葉を見つけて、自分に引きつけた言葉として書いたメモが元になった「訳」である。また、わたしの老子にたいする「情けないがゆえに魅力的な老人」というイメージは、老子を描いた魯迅の『出関』を評した花田清輝さんの『魯迅』にも大きく依っている。あれから何十年、わたしはいまも変わらずに、沌沌、昏昏としていて、花田さんの書いた「黄塵の渦まくなかを、のろのろと、砂漠にむかって消えていく老子のすがた」に惹かれている。

『老子』二十章

絶學無憂
唯之與阿 相去幾何
善之與惡 相去何若 
人之所畏 不可不畏 荒兮其未央哉
衆人煕煕 如享太牢 如春登臺 
我獨怕兮其未兆 如孾兒之未孩
儽儽兮若無所歸
衆人皆有餘 而我獨若遺
我愚人之心也哉 沌沌兮
俗人昭昭 我獨昏昏
俗人察察 我獨悶悶
澹兮其若海 飂兮若無止
衆人皆有以 而我獨頑似鄙
我獨異於人 而貴食母

学ぶことをやめてしまえば憂いはない。
「はい」と「ええ、まあ」とどう違うんだ。
善と悪はどう違うんだ。
ひとが嫌がることはしないほうがよいけれど、きっちりやっていたらきりがないじゃないか。
世間のひとは、笑いあって、ご馳走食べて、春の日の高台にいるみたいだけれど、
わたしは独り怖気づいて何の兆しもなく、笑うこともない嬰児みたいだ。
疲れて果てて身の置き場もない感じだ。
世間のひとはみな何かを持っているのに、わたしは独りなにもかも失ってしまったみたいだ。
わたしの愚か者のこころはぐちゃぐちゃだ。
世の中のひとは何をするかを知っているのに、わたしだけは真っ暗だ。
世の中のひとは何をするかわかっているのに、わたしだけは悶々としている。
ふらふらと海に漂うようで、風のようにゆき先もしれない。
みんなはなにかをなしているのに、わたしだけは独り引きこもっている。
わたしは独りひとと違っていて、母に生かされていることに甘えている。