寒星2021/01/01 22:10

あけましておめでとうございます。

職員にも配られた国立天文台の今年のカレンダー。暮れに掛け替えて、1月の「VERA 水沢観測局の20mと10m電波望遠鏡、そして冬の星座たち」と題された写真を見ると、オリオン座と並ぶふたご座の中央下部にひときわ明るい星がある。あれっと思ったが、ざっくり確認してみたら、2014年の1月ごろ、そこに木星があったので、その頃の写真なのだろうと納得した。
NAOJカレンダー1月

木星といえば、暮れの12月21日前後に、木星と土星が離角0.1度まで接近した。下の写真は、12月19日、野辺山45m電波望遠鏡(別の天体を観測中)越しに見た、離角がかなり小さくなっている木星と土星である。
野辺山:木星と土星

今日1月1日の日没直後、東京の自宅から富士山の左上を見ると、木星と土星、だいぶ離れたが、まだまだ近くに輝いていた。
木星と土星と地球

冬の星のことを俳句では寒星(かんぼし)という。中村草田男さんの句が有名だが、岸風三樓さんの句も気になる。

寒星や神の算盤たゞひそか 中村草田男

寒星や地上に逃ぐるところなし 岸風三樓

岸氏は、反戦俳句の弾圧事件「京大俳句事件」にも関係していたらしいので、そのときの句なのだろうか。冬の星の句では、加藤楸邨さんの句も強く印象に残っている。これは、出征する教え子を思って詠んだ句らしい。

生きてあれ冬の北斗の柄の下に 加藤楸邨

塙町ダリアの折り紙 など2021/01/11 10:01

◆塙町ダリアの折り紙
遅ればせながら、昨年末におこなわれた「塙町ダリアの折り紙募集」審査結果。よい作品がたくさんありました。

◆計算尺
古いものを整理をしていて、むかし、父から譲りうけた計算尺を見つけた。宮崎駿監督の『風立ちぬ』を観たさい、「鯖の骨と計算尺と高原の風が主役」との感想を持ち、父から貰ったあの計算尺はどこにいったのだろうと思いながら確認できずにいたのだが、それがでてきた。

わたしが理学部に入学したときに買った関数電卓は、たしか1万円近くして、それもまた時代の流れを感じさせるが、計算尺の時代は疾うのむかしに終わっていて、実用で使ったことはない。父が学生時代の戦中のものではなく、戦後のものだとは思うが、いずれにせよ、かるく半世紀以上は前のものである。しかし、道具としての精度はまったく劣化していない。主要素材が竹なのもよい味で、狂いなくスムーズに動くさまは、物としての魅力にあふれている。

計算尺

黄金比(1.618...)の逆数が黄金比マイナス1(=0.618...)であることを確認してみた。対数を用いた演算なので結果は6.18..になっており、桁は換算しないといけない。

◆折鶴型飛行機械
ひさしぶりに『鉄腕アトム』を読んで、『青騎士』の敵役・ブルグ伯爵の乗る飛行機械が折鶴のかたちをしていることに気がついた。ちょっとしたことろにも見どころがあって、手塚さんはやはりすごいなあ、と。
『青騎士』


◆谷折り線の謎

谷折り線をながめ一日 髭面の男の胸にウッドストック 東直子

谷折り線という、折り紙創作家にとって無視し難い言葉がでてくるので、気になる歌なのだが、歌意はきわめてわかりにくい。上の句の中で大きく切れていることは、分かち書きがあることで明白だが、その切れは、空白一文字ぶんよりはるかに大きい断絶になっている。なぜ谷折り線をながめているのか、誰がそうしているのか、後半がその解明のヒントになっているのかと期待すると、そういうわけではないので肩透かしをくらう。ウッドストックは、伝説的なあの音楽フェスティバルのことではなく、スヌーピーのともだちの黄色い鳥のことだろうが、それも解読のヒントにならない。

この歌が収録されている歌集『春原さんのリコーダー』に付されている解説でも、高野公彦さんが、東さんの多くの歌は「分からない」と率直に書いている。氏はその説明にアンドレ・ブルトンのオートマティスム(自動記述)の概念を援用している。東さんの歌の多くは、俳諧でいう「取合わせ」に偶発性を持ち込んだもので、「解剖台の上のミシンと傘の偶然の出逢い」のようなものだと、わたしも思う。理路をもって内容を読み取ろうとしても読み取れないのだ。わからないままに受けとり、ほとんど意味を剥奪されながら無視できない言葉の残響を味わうのが筋なのだろう。しかし、谷折り線という言葉に思いいれが強いので、わたしのもやもやはおさまらない。山折り線はどこに行ったのだ。たぶん、このもやもやを発生させることこそが彼女の歌柄の重要な部分で、わたしがその状態になったこと自体、すでに彼女の術中なのだろう。

わたしの最近の趣味のひとつは、折り紙や数学や天文のでてくる歌や句のコレクションだ。以下の歌もそうしたものなのだが、これまた、上下の句のつながりが特異で不連続だ。
(蛇足ながら、「特異」と「不連続」は、数学用語の singular と discontinuous の含意)

折鶴のかたちを残し火は消える たったひとりをたったひとりに 東直子
数式のほどけるように雪が降るこんなさびしいうれしい島に

上の句だけ抜き出して五七五にすると、かなり素直に受けとれる。

折鶴のかたちを残し火は消える
数式のほどけるように雪が降る

前者、江戸時代の奇術書『仙術日待種』(センジュツヒマチグサ、一七八四、花山人)に「火中より鶴を出す術」というものがある。コンニャク粉を水で溶いたものをひいた紙で折鶴を折り、まるめた紙の中に隠しておくと、燃えたあともかたちが残りやすいというタネの奇術だ。以前、コンニャク粉を買ってきて実験に成功したが、粉が大量に余った。一握りの粉から大量にコンニャクができるので、その後、余った粉でしばらくコンニャクを食べることになった。

後者は、五七五だけ抜き出しても奇抜な比喩だが、次のように想像すると物理的な感触が濃密になる。

数千メートルの上空、マイナス15度前後の大気において、飽和状態にあった水蒸気の平衡状態が相転移して結晶が発生する。自己相似的で平坦な六回回転対称の構造に成長した水の結晶は、上昇気流と重力のバランスが崩れて落下し始める。そのとき、平坦な結晶がいくつか絡まりあった複雑な形状もあって乱流が発生し、単純な落下ではなく舞うような運動をする。雪という現象は、このように、解析的には解きにくい、しかし、膨大な演算にしたがった理に適った現象として生まれ、そして消えてゆく。それはまさに「数式のほどけるよう」な感じ、といえなくもない。なお、東さんには「雛のある部屋に足し算教えつつ雪降るように切なさが降る」という歌もあって、これも上掲歌につながる。

東さんの歌がみなこんなにわかりにくいかというと、そうでもなく、『折紙探偵団』171号に書いたエッセイ『折紙歌合(おりがみうたあわせ)- 折り紙が詠み込まれた短歌と俳句 -』で引いた歌は、謎がありながらわかりやい。

気持ち悪いから持って帰ってくれと父 色とりどりの折り鶴を見て 東直子

このとき持ち帰った折り鶴を家で燃やしたときの歌が、「折鶴のかたちを残し…」であるという解釈はどうだろうか、とあらためて思った。ただ、中途半端に燃え残ったのでなければ、(コンニャクびきをされていない紙なので)燃え崩れてしまったはずなので、折鶴のかたちは灰の中に思念として残ったものと見たほうがよい。なんにしても、言葉の意味自体はとることができる。いっぽう、次のふたつの「数学短歌」は、またまた難問である。

数字から数字が生まれしんみつな灯芯としてひんやり燃える 東直子
マイナスになれば輝く数値あり瞼で割れる夢のたのしさ

一首目、自然数からゼロや負の数が生まれ、有理数や無理数が生まれ、複素数や四元数が生まれ、といった数学の歴史や、リヒャルト・デデキントの『数とは何かそして何であるべきか』という、それ自体が短詩のようでもある書名を連想した。二首目は、シャボン玉のような夢を瞼で割っているイメージだ。眼を閉じることではなく開けることで割るので、符号が反転するのか、夢のシャボン玉は非ユークリッド的な負曲率の「擬球」で、それが球である眼球と対比されているのか、などと。

こんなふうに読んでいると、詩歌に使われた専門用語から生じる連想と、科学用語の濫用、いわゆる「ファッショナブル・ナンセンス」は同種なのかという問題も頭をかすめる。そして、暗示や喚起が詩の核心だとしても、詩においては言葉が明晰でなくても許されるのはなぜか、という身も蓋もないことも考える。