正三角形×2モジュールなど2019/05/03 13:43

『流れよわが涙、と孔明は言った』(三方行成)
三方行成さんのSF短編集『流れよわが涙、と孔明は言った』の表紙に、折鶴が描かれていた。よく見ると、ピョンピョンガエルやユニット折り紙なども散りばめられている。本編中にも折り紙がでてくるのだろうと、ぱらぱらと見ると、『折り紙食堂』という連作が掲載されていた。『エッシャーのフランベ』『千羽鶴の焼き鳥』『箸袋のうどん』の三編である。

路地裏に、あるいは、文明が崩壊した廃ビルに看板を掲げる、謎の「折り紙食堂」。そこで供される、秘技としての折り紙。こう書いても、なんのことかわからない要約だが、そういう話なのである。いわゆるマジックリアリズム的な作品なのだが、こうした作品では、却ってというか、ディテイルのリアリティーは重要になる。で、この小説の折り紙のディテイルがどうかというと、なかなかのものだった。三方さんはじっさいに折り紙をたのしんでいるのかもしれない。三方という名前も折り紙ぽいしね(伝承作品に「三方」(サンボウ)がある)。

coco氏による表紙のイラストの折り紙もよく描かれている。30枚組みの薗部ユニットと、笠原邦彦さんのリボン模様ユニット(小説中で「エッシャー」と題されているモデルか)、折鶴、風船、ピョンピョンガエル、パクパク(フォーチュン・テラー)のほかに、ユニコーンが描かれていて、これは、事情通に「ははあ」と思わせる遊びになっている。
『流れよわが涙、と孔明は言った』『流れよわが涙、と警官は言った』(P. K. ディック)→『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』→映画『ブレドランナー』という連想だ。『ブレドランナー』には、折り紙のユニコーンがでてくるのだ。(ちなみに、なんどか触れたけれど、『ブレドランナー2049』には、わたしのモデルの折り変えである折り紙の羊がでてくるのであった。残念ながら「無断使用」だけれど)

◆WARIGAMI
『WARIGAMI』という、折り紙をネタにした、TVシリーズがあるらしい。「紙から殺人武器をつくる特殊能力を持った日本人の女戦士のアクション物語」などとある。トレイラーを見るとよくできているが、情報が少ない。

◆『零の発見』
先日このブログで、『零の発見』(吉田洋一)に触れた。しかし、よく考えると、名著の誉れ高いこの本を読んでいないということに気づいた。岩波新書の13番目、初版1939年、2019年144刷の超ロングセラーである。入手し、まず扉をひらいて驚いた。のちにPCCPシェル(擬似円筒凹型多面体シェル、by三浦公亮)といわれる立体のモデルの写真が載っていたのだ。円筒の表面積の計算において、分割方法が適切でないと、値が発散してしまう例としてあげられている。とても興味深い例で、川崎敏和さんが言及していた記憶もあるが、この面積の発散は、直感的にはわかりにくい。似たわかりやすい例では、斜面を階段で表すと、その極限をとっても長さが斜面の√2倍になってしまうというものがある。ただその例では、発散はしないので、意外性は落ちる。
『零の発見』(吉田洋一)

献辞が「武見太郎にささぐ」となっているのも、どういう話があるのだろうと思った。日本医師会会長だった、あの武見太郎氏だろうが、吉田氏とのつながりがよくわからない。

◆正三角形×2モジュール
寺田徳重さんの「60°ユニット」のバリエーションをつくった(近日中に、図をどこかで公開予定、追記:前例ありと判明したので断念)。正三角形×2となるモジュールで、長所は、さまざまな多面体が組めることだ。

デルタ多面体
上段:星型多面体(正四面体からの星型、ステラ・オクタンギュラ(ダ・ヴィンチの星))
中段:凸デルタ多面体(6、10、12、14、16)
下段:正四面体、正八面体、正二十面体

正多面体を含む凸デルタ多面体は、中段下段の8個ですべてとなる。ひさびさにこのパターンのモジュールをさまざまに組んでみて、正二十面体とデルタ十六面体の構造がよく似ているということを、あらためて思った。

どちらも、ふたつの「緯線」上に5価頂点(辺が5個集まる頂点)が並ぶ。そして、「北極」と「南極」も5価頂点になるものが正二十面体、それが4価頂点になるものがデルタ十六面体である。となると、デルタ十二面体は「極」が3価頂点のもののように思える。しかし、そうではないのが面白い。同系列の考えでデルタ十二面体をつくろうとすると、正三角形がふたつづつ同一平面となって、平行六面体になってしまうのだ。

また、別のところでも書いたことがあるが、デルタ十八面体が存在しないことも面白い。
正三角形の面による(20, (18), 16, 14, 12, 10, 8, 6, 4)面体は、
5価頂点が(12, (10), 8, 6, 4, 2, 0, 0, 0)
4価頂点が(0, (1), 2, 3, 4, 5, 6, 3, 0),
3価頂点が(0, (0), 0, 0, 0, 0, 0, 2, 4)
というならび、全頂点の数でいえば、以下のきれいなならびで可能に思える。
(12, (11), 10, 9, 8, 7, 6, 5, 4)
しかし、5価頂点10、4価頂点1は不可能なのである。

網代モジュール
上のストライプ模様とは異なる、網代(あじろ)模様のものもつくってみた。

歌の話あれこれ2019/05/17 00:45

今回も、話が長い。

◆天命反転住宅、シェレルプ・マリスタニー彗星、謎のマンドロンダン
三鷹天命反転住宅

なにゆゑに室は四角でならぬかときちがひのやうに室を見まわす 前川佐美雄
四角なる室のすみずみの暗がりを恐るるやまひまるき室をつくれ
丸き家三角の家などの入りまじるむちやくちやの世が今に来るべし

『植物祭』(前川佐美雄、1930)に収録されたこれらの歌から75年後、球や円筒状の部屋がある三鷹天命反転住宅(荒川修作、マドリン・ギンズ設計:写真)が建築された。この建物は、国立天文台三鷹キャンパスの近くにあるので、同キャンパスでの仕事のさい、昼休みの散歩で横を通ることが多い。何度見ても、不思議な建物である。隣には、オオサワベーカリーというパン屋さんがあって「天命反転パン」という商品もあるのだが、いつもあるわけではないので買いそびれている。
(追記5/28:先日三鷹に行ったら、オオサワベーカリーさん、なんと閉店。機械の故障とのこと。先月まで、営業していたのに…)

『植物祭』では、次の歌も印象深かった。

千年のつきひはやがてすぎ行かむされども星は地にかへり来ぬ

一読して、ただ雰囲気のある言葉を並べたのではなく、具体的な天体現象を描写した歌に思えた。写生を嫌ったことで知られる佐美雄だが、なぜかこの歌には、事実に即した手応えがあった。歌聖・定家の『明月記』の記述が貴重な古天文記録となっていたり、牧水の火星やハレー彗星を詠んだ歌が時日をほぼ特定できるのも連想した。

これは、1927年12月に近日点を通過した、シェレルプ・マリスタニー(Skjellerup-Martistany)彗星を詠んだ歌として、まず間違いないと思う。『短歌の道』というエッセイに「『植物祭』は大正十五年(引用者注:1926年)九月以降の作」とあるので、時期も合っている。

1927年12月、近日点を通過したシェレルプ・マリスタニー彗星は、日中でも観測できるほどに輝いた。等級はマイナス6、尾は視角40度あったという(『Comet of Century』 Frewd Schaaf、1997による)。離心率は0.9998、遠日点が海王星軌道の約70倍(13光日)もある長周期彗星で、その周期は36532年にもなる。千年経っても、「かへり来る」どころか、遠ざかる道のりの20分の1ほどを往ったにすぎない。しかし、離心率がぎりぎり1未満なので(1だと放物線軌道、1より大きいと双曲線軌道で、非周期彗星になり、戻ってこない)、軌道が撹乱されない限り、戻ってくる。前々回の接近時には、絶滅したネアンデルタール人もこの星を見上げていたはずで、3万6千年後には、人類が絶滅しているかもしれない。

シェレルプ・マリスタニー彗星
海王星の軌道(小さい丸)とシェレルプ・マリスタニー彗星の軌道(赤い長楕円)の比較図(じっさいは、S-M彗星の軌道傾斜角が90度に近いので、両者の軌道はほぼ直交している。この図はあくまで大きさの比較の図である)

『植物祭』にある次の一連の三首も、やはり星を歌った歌だが、上の歌ほどには、これだという解釈はできていない。

てんかいに遅遅とほろびて行く星の北斗もあればわれのねむりぬ
あたらしく北斗となれるペルセウスの星をながめて夜夜さびしめり
つひに北斗もマンドロンダンの星に狙はれて蒼き光を夜夜に嘆けり

恒星の固有運動を詠んだ歌とも思ったのだが、ひとが眠りにつく晩秋の深夜の空(下図)を詠んだ歌としたほうが妥当だろう。しかし、「あたらしく北斗となれる」は不思議な表現で、「マンドロンダン」という謎の言葉をアンドロメダとする解釈にも自信はない。

晩秋深夜の北天
11月末深夜零時、東京近辺の北の空(北斗星が地平近く、ペルセウス座とアンドロメダ座が天頂近くにある)

◆短歌について考えている
とまあ、『数学セミナー』の投稿短歌コーナーが終わってから半年、歌はつくっていないが、歌集を読み、短歌について考えている。

個々の歌ではなく、短歌や俳句全般についても考えている。型というものの機能、そのオルタナティヴ(もうひとつの)アート性、旧い権威に担保されたフラットさ、箴言としての機能、引用の構造などである。そして、それらの関心の中心にあるのは、折り紙とのアナロジーだ。

漢詩の短歌訳を試行してみたり、定型詩を称しての「ピタゴラス的」というボードレールの記述や、「短歌的叙情」を糾弾する小野十三郎さんの評論を図書館で探して読んだりもした。どうやらわたしは、齢重ねて、かつてそうだった文学青年的なナイーヴさに遡行している。

最近読んだ歌集で印象的だったのは、昨年末にでた藪内亮輔さんの歌集『海蛇と珊瑚』だった。藪内さんがこれらの歌をつくったのは、数学専攻の大学生-院生のときだそうだ。さきごろわたしも歌想にした(?)、数学者・カラテオドリの名を詠んだ歌もあった。

フロマンタンとカラテオドリの名前おもしろさ選手権カラテオドリの勝利 藪内亮輔

ちなみに、カラテオドリは数学者だがフロマンタンは違う。そして、こういう歌ばかり読むひとではない。そもそも、数学に想をとった歌はあまりない。歌も、数学にたいしての立ち位置も、真剣で切実なので、簡単には混ぜられないのかもしれない。露悪的な表現も多いのだが、そこに騒(ぞめ)いたものはなく、静謐で、しかし、ひりひりした若さを感じさせる歌が並ぶ。ときに、「わしには強すぎる」と、飛行石を見たポムじいさん(『天空の城ラピュタ』)の気持ちになる歌たちだ。

われのいかりは本を投げ捨て鉛筆を投げ捨てつひにわれを投げ捨つ

わたしの最近の趣味である「折々の歌探索」(折り紙に関係する歌や俳句の探索)のコレクションに加わった歌もあった。

感情を折り合ひながら君とゐるそれはときどき飛行機になる

「折り合う」という言葉に、なぜ「折る」が使われるのかというのをふと疑問に思ったが、「我を折る」(我を曲げる)など、主張を変えることの「折る」からきているのだろうと得心した。この「折る」は、どちらかというと、面よりも線を曲げる感じ、ベクトルを変化させるイメージだ。ただ、そのベクトルを法線ベクトルとみれば、平面が対応しているので、「折り合い」は折り紙になりうる。…考えすぎである。

ほかにも「夕空を折り畳む」という表現の歌もあって、そのうちのひとつが以下だ。

夕空は折り畳まれてきみの目に入つて涙にも火にもなる

これは、より数学的というか、コンボリューション(たたみこみ:重畳積分)であろう。これは考えすぎではない…と思う。

衆目の一致する秀歌は、数学とは関係がないもので、事実上のデビュー作らしい連作の中の一首である。平易な表現で、ありふれた日常の中の特別な一瞬が、鮮やかに切り取られている。うますぎるぐらいうまい。

傘をさす一瞬ひとはうつむいて雪にあかるき街へ出でゆく

最近見つけた、「数学短歌」では、杉崎恒夫さんの次の歌が好きだ。

カウンターにぽつんと腰をかけている数直線の√2の位置

ルート記号と数直線を、スツールとカウンターテーブルに見立てている。この歌を10年前に知っていれば、『本格折り紙√2』の題辞につかったのになあ。

杉崎さんの歌は、どこか宮沢賢治的だ。理科趣味で、透明で、しかし切ない。ただ、賢治の詩にはときに切羽詰まった感じがあるが、杉崎さんの歌では、そうしたものは意図的になのか避けられ、その調べは穏やかだ。

毒のないぼくの短歌とよくなじむ信仰心のうすいマシュマロ

上の薮内さんは若い歌人だが、杉崎さんは、2009年に90才で亡くなった歌人だ。歌集も晩年、そして亡くなったあとに出ており、多くは老境にはいっての作歌である。しかし、その穏やかさは老巧とは違うものだ。歌柄はおどろくほど瑞々しい。

灯台の白い破片が飛びちっているのではない風のかもめら

氏は、国立天文台の三鷹キャンパス(当時東京大学東京天文台)で、経理の仕事をされていたらしい。何度か歌に詠まれているアインシュタイン塔(一般相対性理論検証用の太陽分光写真儀)や、セミの声に満たされる夏の林は、わたしにも親しい。上にも書いたが、月に数回仕事で行く三鷹キャンパスの構内や周辺を、昼休みにひとりで散歩するのを、わたしは習慣にしている。同僚と一緒に食事をすることはなく、独りで散歩する。社交性に問題があるわけではない…たぶん。

語尾ひきてトラツグミ鳴けり朝暗きアインシュタイン塔のかたより
ひとかけらの空抱きしめて死んでいる蝉は六本の足をそろえて
落ち蝉の翅の網目に刻まれし夏つかのまの光の記憶

退官されたときと、わたしが天文台の仕事を始めたのがほぼ同じころなので、接点はまったくないが、もし時代が重なっていたなら、「杉崎さんですか。事務の用事ではありません。あなたの歌のファンなのです」と事務室を訪ねたのではないか、などとも考えた。というように、わたしは社交性がないわけではない…たぶん。

『食卓の音楽』の解説(前田雪子さん)を読むと、杉崎さんは、1980年代初頭、開所したばかりの野辺山観測所で、歌の師の前田透さんを案内したことがあるという。そのさいに詠まれた前田さんの歌が次だ。野辺山45m電波望遠鏡(ヨンゴー)を詠んだ、珍しい歌である。

宇宙電波に白き影おくアンテナはさみどりの野に日をかえしおり 前田透

野辺山45m電波望遠鏡

さみどりとあるので、季節もちょうどいまごろだろう。まあ、野辺山の気温は、5月にはいってから、マイナス5度を下回った日もあったのだけれど。

杉崎さんの歌で、わたしの「折々の歌アンテナ」にかかったのは次である。

音荒く雨ふる夜明け胸という一まいの野を展げていたり

胸は、枯野か沃野か、いずれにせよ広い草原で、ふだんのそれは折り畳まれている。しかし、夜明けには、そこに風が吹き、雨が降り注ぐ。事実、肺胞はフラクタル的な構造になっていて、その面積は100平方メートルに近いという。現実の肺胞は展げることはできないが、想像の中にある胸は、展開可能な「ミウラ折り」構造になっているのかもしれない。ちなみに、杉崎さんは若いころの結核で、肺は片方だけになっていたという。

◆フナムシとムカデ
船虫の無数の足が一斉に動きて船虫のからだを運ぶ 奥村晃作

奥村さんのこの歌がすばらしいので、類想の歌や句はないかと、フナムシのでてくる句を探していたら、次の二句が対になっていて面白かった。

舟虫のとまれば脚のみなそろふ  阿部夕礁
船虫の動けば足のみな動く 谷口三居

フナムシの句には、ほかにも面白いものが多かったのだが、合わせてムカデの句も調べたら、これは、すこし気が滅入った。たたきつぶす句ばかりなのだ。とりわけ、山口誓子さんのムカデ嫌いはきわ立っていた。

身をくねる百足虫を見れば必殺す 山口誓子

どうやら、家にたくさん出て閉口していたらしい。生息域の違いで、家にはあまりあがってこないフナムシとは違って、ほかの俳人もみなムカデと闘っていた。

勝つ事は勝てり蜈蚣(むかで)と闘ひて 相生垣瓜人
蜈蚣死す数多の足も次いで死す (同)

これらは攻防の必死さがあってまだよいほうかもしれない。全般にひどい扱いなのだ。現代の句や歌では、ゴキブリもこの扱いであることが多い。「ミミズだって オケラだっけ アメンボだって みんなみんな生きている」(やなせたかし)のに。

わたしだって、ムカデの脚を見ればぞわぞわするが、波のような動きのある脚は美しいとも思う。先日も、家の中にちいさいムカデがいたので、紙でつまんで外に逃した。わたしは殺しませんよ、ということを強調したいわけではない。殺生戒の強いジャイナ教徒のような信仰心は持っておらず、家の周りに大量発生したら薬剤を撒くかもと思うので、欺瞞でもある。来世も信じていないので、カンダタのような救いを期待しているわけでもない。それでも、千年前の『蟲愛づる姫君』が「毛虫は毛などが面白いのに、話にもでてこず、残念で物足りない(かは虫は毛などはをかしげなれどおぼえねばさうざうし)」と嘆いた頃からあまり変わっていないなあ、と思う。ただこれは、虫は文芸の視野にもはいっていないという嘆きなので、現代短歌や俳句では詠まれているだけでもましと言えるかもしれない。

ムカデといえば、1年半前の折紙探偵団名古屋コンベンションのとき、アメリカの折り紙創作家・ブライアン・チャンさんと、以下の会話があった。

わたし:「今日の講演で、あなたは、ネコバスはムカデの一種と話していたけれど、ケンタウロスは昆虫ですね」
チャンさん:「カマキリの一種ですね」
ブライアン・チャンさんの作品

むろん、折り紙の造形を構造的に見た上での、同類であるとの認識だ。なお、ケンタウロスが昆虫的であるという話は、星新一さんが『救世主』という話にも書いている。

ムカデは英語でcentipedeである。センチメートルのcentiすなわち百と、pedestrian(歩行者)などの語幹のpede(足)からなる言葉で、漢字の百足と同じ命名法だ。いっぽう、和語のムカデは、百手(ももがで)だという。足ではなく「手」なのだ。いずれにせよ百である。しかし、じっさいのムカデ綱に属する動物の脚の数は百ではない。15、21、23、37、41対など奇数対だという。フナムシとダンゴムシも7対で奇数、昆虫も3対で奇数だ。なぜかは、ざっと調べてもわからない。『The On-Line Encyclopedia of Integer Sequences』で、この「15、21、23、37、41」という数字の並びを検索してもヒットしない。

トークイベント「数学的オリガミ入門」など2019/05/20 19:40

 - 最新刊『折る幾何学 約60のちょっと変わった折り紙』の話を中心に-
日時:2019/6/30(日)14:00-16:00
場所:双子のライオン堂書店(港区赤坂)
講師:前川淳
詳細は上のリンクから。

トークイベントですが、いろいろと盛りだくさんの内容にする予定です。
申し込みがはじまっています。

##
イベントには直接関係ありませんが、会場の書店さんの名前に合わせて、かわいい双子のライオンをつくってみました。耳とたてがみの造形を一体化したシンプルな多面体感が特徴で、「円錐のペンギン」や、「デルタ多面体のヒヨコ」などを考えたのと同時期のデザインです。
双子のライオン

6月は、ほかにも関わっているイベントがいくつかあります。

日時:6/22(土) 10:00-17:00
場所:JOASホール(東京都文京区)
主催:日本折紙学会
発表者募集中!

日時:6/23(日)13:00-15:00
場所:府中郷土の森博物館・ふるさと体験館
作品:星つき短冊(簡単版)(予定)
講師:前川淳
星つき短冊

へウレーカ!など2019/05/21 19:57

「紙1枚で何が折れますか?」
5/22日(水)22:00-22:45 NHK Eテレ
三谷純さん、フラクタル日除けの酒井敏さんが出演。
わたしに関連する話もちらりと出ると聞いた。

追記(5/22 22:45):酒井さんのフラクタル日除けは、東京近郊では、町田市鶴間5-3-30で見ることができます(はずです。すくなくとも5年前

TVといえば、5/17の『美の壺 進化する折り紙』に、三浦公亮さん、岡村昌夫さん、三谷純さん、有澤悠河さんが出演した。再放送は、5/25(土)6:30-7:00 NHK BSプレミアム。

エッシャー生誕121年記念 テセレーション講演会
6/15(土)13:30-16:00(13:00より受付)
講 師:荒木義明、谷岡一郎、藤田伸、他、日本テセレーションデザイン協会メンバー
場所:東京都美術館(上野) 2F スタジオ
定員:40(先着)

たぶん(?!)わたしも日本テセレーションデザイン協会のメンバーにはいっている。
121周年というのは11の平方だからかなあ?

◆折紙探偵団九州コンベンション
先週末は、佐賀大学での、折紙探偵団九州コンベンションに参加した。
わたしの講習作品は、ぱくぱくと口を動かして遊ぶ「大口のサカナ」。
大口のサカナ

1年ぶりの九州。何人かのかたから、おみやげをいただいた。ありがとうございます。
写真は、Yさんからの、カプセルトイ・「折リアル鶴」。なんじゃこりゃと。
折リアル鶴

『魔法を召し上がれ』2019/05/26 11:01

瀬名秀明さんから、新刊『魔法を召し上がれ』をご恵贈にあずかった。若いマジシャンの物語である。
『魔法を召し上がれ』(瀬名秀明)

献本をうけることは多くはない。そんなわたしが読者に選ばれた理由は、折り紙である。氏の前作の『この青い空で君をつつもう』と同様、この物語にも、重要な小道具として折り紙が登場する。ただし、折り紙をマジックで扱うのは、たぶん、簡単ではない。作中でも、主人公が「マジックはお客様が見ているものが途中で別のものに掏り替わることで驚きが生まれる。ただなぜか折り紙でそれをやると、嘘が入り込む感じがする。折り紙はカードやロープなどと違ってぼくたち日本人の指先に馴染んでいるからだろうか」などと考えている。瀬名さんのこのあたりの感覚はじつに繊細だ。かっこいいカバーのコラージュ(Q-TA氏)に折り紙がつかわれていないのも、似た理由かもしれない。

『この青い空で...』が出版されたあとの一昨年、日本折紙学会は、年次コンベンションの講演に瀬名さんを招いた。氏はそのとき、次作でマジックと折り紙をモチーフにするつもりです、と話していた。わたしはわたしで、そのときの瀬名さんの話に刺激されて、マジックと折り紙の関わりについてすこし調べた。上に、マジックで折り紙をつかう難しさを記したが、両者の親和性が高いのも、またたしかなのだ。たとえば、イギリスで、ひいてはヨーロッパで折り紙を広めたひとりであるロバート・ハービン氏は、マジシャンであった。このつながりは、わたしも以前から気になっていた。ただ、わたしが一番の関心を持ったのは、江戸時代の奇術だった。その調査の結果は、日本折紙学会の機関誌『折紙探偵団』166号と167号(2017)のエッセイ『江戸の奇術と折り紙』で報告した。『仙術日待種』などの文献に記された「火中より鶴を出す術」をじっさいに実験してうまくいったことなど、たのしい調査だった。下の写真はそのときのもので、蒟蒻粉をひいた紙は燃えてもかたちがのこるという「科学手品」である。
「火中より鶴を出す術」

いっぽう瀬名さんは、この物語で、ありえたかもしれないすこし未来の世界でのマジックを語っている。ところどころに挟まれるテクノロジーのガジェットに、瀬名節が横溢する。そして、ア・ボーイ・ミーツ・ア・ガールであり、ア・ボーイ・ロスト・ア・ガールの物語であるということも相まって、手塚さんや藤子(F)さんの描いた懐かしい未来、ジュヴナイルの手触りがある。また、これは、謎解きミステリでもあり、西洋料理、フランス料理の給仕の物語でもある。カバーや表紙に、タイトルのフランス語訳である「Délectez-vous De la Magie」が印されているのは、そういう含意だろう。その記述からひとつ思いついたことがあったので記しておこう。
Roi de la magie なる言葉だ。魔術の王という意味になる。

おわかりだろうか、この言葉のなかには、origamiが含まれている。roi magi→origami
折り紙びいきとしては、折り紙はマジックの王なのでないかと、密かに思っている。