モリアーティのリアリティ2019/04/03 23:13

以下は、すこし前に書いたものだったのだが、多事に忙殺される日々に埋もれてしまっていた。あらためて読み返したのだが、マニアック過ぎ、かつ無駄に長く、ここを読むのは主に折り紙に関心のあるひとだろうに、それに関係するのは前振りだけで、誰に向かって書いているのかわからないのであった。しかし、せっかく書き、埋もれるのは惜しい気もしたので、ここに載せることにした。

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◆紙の投げ矢と紙のパーティー帽
シャーロック・ホームズの宿敵ジェームズ・モリアーティ教授を中心に据え、腹心モラン大佐を語り手とした『モリアーティ秘録』(キム・ニューマン著、北原尚彦訳)の第三章『赤い惑星連盟』に、折り紙研究、紙の民俗研究の観点から、たいへん興味深い記述があった。「プログラムを折って作った紙の投げ矢」と「紙のパーティー帽」である。作中に詳しい説明がなかったので、すこしウンチクを述べよう。

まず、「紙の投げ矢」。これはいったい何か。これは、紙飛行機が普及する以前(本物の飛行機が飛ぶ以前でもある)、滑空するのではなく投げるものとしてあった紙の矢のことである。紙飛行機のように固定翼で揚力を得る航空機の原理を使っていたのではなく、投げる矢だったのだ。19世紀初頭には、カツラにこれを突き刺した、花魁の簪のようなファッションがあったという記述も残る。

そして、「紙のパーティー帽」。これは、かぶると間抜けな感じになるものとして描写されている。現代で紙のパーティー帽というと、クリスマスなどでかぶる円錐状のものが思い浮かぶ。あの帽子は、学校で出来の悪い生徒にかぶせた「dunce cap(バカ帽子)」が起源と思われるものだ。しかし、本書の第五章『六つの呪い』には、「低脳帽をかぶる運命となった生徒」と、まさにこのdunce capが、別に描写されている。となると、この「紙のパーティー帽」は、また違ったものである可能性もある。『鏡を抜けて(鏡の国のアリス)』(ルイス・キャロル)の挿絵などでも知られるように、新聞紙を折ってつくる帽子があったことも知られるので、そうしたものかもしれない。

モリアーティに言及のあるホームズの正典『恐怖の谷』には、「フールズキャップ」なるものも出てきて、これもすこし面白いので触れておこう。フールズキャップ、すなわち、道化師の帽子のことだ。これまた帽子の話のようだが、これは、道化師のすかし絵のはいった紙のことである。ミステリつながりでいえば、元祖・エドガー・アラン・ポーの『黄金虫』にも、「とても汚れたフールズキャップのようなものの切れ端」という記述がある。

単にフールズキャップと言った場合、フールズキャップ・フォリオ、つまり、フールズキャップ規格の紙の半切りを意味することが多い。その縦横比は、現代の国際規格A4のような1:√2の近似値ではない。いくつかのバリエーションはあるが、インペリアル・サイズといわれるものは、8.5インチ:13.5インチで、1:1.58...である。短辺が、今日の北米の規格であるレターサイズ(8.5インチ:11インチ)、リーガルサイズ(8.5インチ:14インチ)に等しいことから、北米のこの規格もインペリアル・サイズの流れにあるものと、わたしは推測している。ただ、これに関してはまだ詳しいことは調べ切れていない。(なお、レターサイズの8.5:11という長方形についての話は、拙著『折る幾何学』の「デューラーの多面体」の項のエッセイでも触れたので、興味あるひとはどうぞ)

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◆小惑星の話
さて。わたしは、シャーロキアンと名乗るには及ばない(とくに映像作品はほとんど観ていない)のだが、ロンドン観光でベーカー街にあるシャーロック・ホームズ博物館は外せないと思うぐらいには、ホームズものが好きなのである。写真は、20年近く前のものである。
ベーカー街221B

ホームズもののパスティーシュ(模倣作)『モリアーティ』(駒月雅子訳)と『絹の家』(同訳)の作者であるアンソニー・ホロヴィッツ氏は、『絹の家』を書くにあたって10ヶ条を決め、その10番目に「宣伝のために、鹿撃ち帽をかぶったり、パイプをくわえている姿を撮影させることは断じてしない」としたらしいが、こちらはただのファンなので、こういう格好をしてしまうのである。ちなみに、ホロヴィッツ氏は、昨年一番話題になった翻訳ミステリ『カササギ殺人事件』(山田蘭訳)の著者で、わたしも、『モリアーティ』『絹の家』は、『カササギ』の書きっぷりに感心してから読んだ。かくして、『モリアーティ』『モリアーティ秘録』をほぼ連続して読んだことで、関連のことを考えたのであった。

天文台のエンジニアとしては、モリアーティ教授が書いたとされる書籍『小惑星の力学』が、以前から気になっていた。

小惑星とモリアーティ教授という話では、小惑星番号5048モリアーティ、同5049シャーロック、5050ドクターワトスンと名づけられている天体があるのも、知るひとぞ知るところだ。つけ加えれば、小惑星にはイレーネ(同14)もある。英語読みをすればアイリーンで、「あの女性」(『ボヘミアの醜聞』)のことだ。みんな星になったのだ。

『Dictionary of Minor Planet Names』
『Dictionary of Minor Planet Names』(小惑星の名前の事典:L. D. Schmadel)より。:Moriartyの説明が妙に詳しい。

ついでに話題を広げると、上記の『Dictionary of Minor Planet Names』という事典は、雑学事典としても面白い本で、「いまホットな」張衡(ジァン・ホン)の名も載っている。元号「令和」の典拠である『萬葉集』の、さらなる元ネタと考えられる「於是仲春令月 時和氣清」という記述を含む『帰田賦』を書いた古代中国の知識人である張衡(A.D,78-139)だ。彼は、主に天文学者として認知されているひとで、1964年、南京の紫金山天文台で発見された小惑星に、その名がつけられているのだ(小惑星番号1802)。この事典には、以下のように記されている。
「後漢の卓越した科学者で、渾天儀や地震計を考案し製作した。また、水力で動作する天球を発明したが、これは、多くの点で、近代プラネタリウムの先駆けである。張衡はまた、月のクレーターにもその名がある。」

張衡はとても興味深い人物で、平凡社の『天文の事典』の「張衡」の項には、「円周率を3.16<π<3.18と算出したことでも知られる」ともある。ただし、この不等式がなにを典拠とするかは不明である。『πの神秘』(デビッド・ブラットナー著、浅尾敦則訳)によると、死の直前に、「円周の自乗とそれに外接する正方形の周の自乗の比が5:8である」と書き残したとされる。つまり、(π^2)/(4^2) =5/8で、π=√10=3.162....ということだ。下図は、以前もこのブログに載せたが、この近似を直感的に見せる図だ(彼がこの図を遺したということではない)。
π≒√10

折り紙関係では、小惑星番号7616サダコというものもある。手元にあった、上記事典の3版には掲載されていなかったが、広島の佐々木禎子さんに因んだ名である。

...と、読みなおしたさいにさらに書き加えて、話がまたまた長くなっている。困ったものだ。仕切り直して、「本論」(?)にはいろう。

というわけで、以下、『小惑星の力学』に関して、精一杯シャーロキアンぶって考察してみた解説である。

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◆『小惑星の力学』に関する考察
小惑星の本

犯罪界のナポレオンこと、ジェームズ・モリアーティ教授が、「純粋数学の最高峰」(『恐怖の谷』)とも称される著作『小惑星の力学』を発表したのは、1875年ごろと推定される[10]。彼の生誕は1840年ごろと思われ、裏社会の表舞台(!?)から消えたのは1891年である。これらの年を、小惑星研究に関する近代までの歴史と対応させるため、まず、簡単な研究の年表を示す。それは、きらめく才能の競演でもある。

**小惑星に関する近代までの歴史**[1][2][3][4][5]
*1760-1772年 レオンハルト・オイラーとジョゼフ=ルイ・ラグランジュが、天体力学の三体問題の特殊条件での平衡解として、今日でいうラグランジュ点を見出した。
*1772年 ヨハン・ボーデが、当時知られていた6つの惑星の軌道半径が単純な数式で表せるというヨハン・ダニエル・ティティウスの法則(1766)を紹介して広めた。これは、のちにティティウス=ボーデの法則の法則と呼ばれる。なお、この法則に、物理学的な根拠は見出されていない。
*1779-1825年 ピエール=シモン・ラプラスが、『天体力学概論』を著した。惑星の公転周期が整数比になる軌道共鳴は、この中で示された。
*1781年 ウィリアム・ハーシェルにより、天王星が発見された。その軌道半径は、ティティウス=ボーデの法則によく合致していたため、同法則が注目されることになった。1846年に発見された海王星も、この法則から大きく外れてはいない。
*1801年 ジュゼッペ・ピアッツィが、ティティウス=ボーデの法則を参照すれば、火星と木星の軌道間にも惑星があるはずということから、ケレス(セレス)を発見した。この天体は、同年、カール・フリードリッヒ・ガウスの軌道計算に基づき、ハインリヒ・オルバースによって、まちがいなく存在するものとして確認された。以後、1802年のオルバースによるパラス(小惑星番号2)の発見に始まり、小惑星は次々と発見され、小惑星帯(いまでいうメインベルト)をなしていることがわかった。なお、小惑星番号1のケレスは、直径が地球の1/10以下とは言え、それなりの大きさがあり、自重力によりほぼ球形であることが判明しているため、2006年の国際天文学連合による惑星の定義の合意以降、準惑星(dwarf planet)と呼ばれるようになった。
*1850年ごろ 火星と金星の軌道の間にある小さな惑星にたいする呼称として、ハーシェルが用いていた小惑星(asteroid)という言葉が定着した。
*1867年 ダニエル・カークウッドが、小惑星帯上の軌道に空隙があることを指摘し、木星の軌道の共鳴によるものと説明した。
*1889年 アンリ・ポアンカレが、ニュートン力学の三体問題に厳密解がないことを示し、かつ、そこから、決定論的な系における非周期性、すなわち、今日でいうカオス理論の端緒となる概念を示した。
*1898年 カール・グスタフ・ヴィットが、小惑星帯の天体とは異なる軌道の天体を発見し、エロス(小惑星番号433)と名づけた。地球軌道に接近する軌道を持つ地球近傍小惑星の最初の発見である。ちなみに、探査船「はやぶさ」や「はやぶさ2」が探査した(している)イトカワ(小惑星番号25143)やリュウグウ(同162173)は、このタイプの小惑星である。(先日もTVで、リュウグウがメインベルトの天体のように、誤って説明されていたので、注意が必要である)
*1906年 マックス・ヴォルフが、木星軌道上に天体を発見し、アキレス(小惑星番号588)と名づけた。これは、木星と太陽の重力均衡点のひとつ(ラグランジェ点L4)の近傍にあり、のちにトロヤ群と名づけられる小惑星群のひとつである。
*1918年 平山清次が、『共通起源と推定される小惑星の群』で、小惑星帯の小惑星を族として分類した。
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上記のように、前世紀初頭の小惑星の研究には日本の天文学者も貢献しているのであるが、日本由来の名前のついた小惑星は、それをさかのぼる1900年、平山信によるトキオ(小惑星番号498)を第一号とする[4]。なお、平山信は平山清次と同姓だが、親戚ではない。トキオの軌道を確定したのは、フランスのオーギュスト・シャルロワで、公的な発見者は彼に譲っている。Tokyoでなく、Tokioなのもそのためであろう。シャルロワは、小惑星ハンターとして著名だが、恐ろしいことに、殺人事件(1910年)の被害者である。犯人は前妻の兄弟とされている[6]。また、彼が発見(1887年-1904年)した99個の小惑星には女性名が多いが、由来不明のものも多い[7]。

さて。上に、1891年にモリアーティが「消えた」と書いたが、同年、彼がスイスでの災難を生き延びたという噂には充分信憑性がある。教授と犯罪王は別人だったのではないかという説[8]や、「改心」して、物理学やロケット工学の発展を影で支えたという説[9]もあるが、やはり犯罪界からは抜けられなかったのではないかと思われる。かくして、1910年のシャルロワの殺人事件も、他人を操ることに長けたモリアーティのこと、彼がなんらかのかたち関与していたのではないのかという疑念が消えず、動機もいくつか推定できる。しかし、シャルロワ氏の名誉にも関わることなので、ここでそれを詮索するのはひかえておこう。

小惑星の科学とモリアーティの暗躍のつながりを示唆することは他にもある。東京帝国大学理科大学星学科の一期生であった、前出の平山信は、1890年にロンドンのグリニッジ天文台に留学したが、すぐにドイツのポツダムに移っている[4]。なぜすぐにイギリスからドイツへ移ったのか。イギリスでないことはもとより、当時ポアンカレもいて、平山の師である東京天文台(現・国立天文台)初代台長・寺尾寿とも縁の深かったフランスでもないのは、やや不思議である。

これに関しては、1890年から91年、ホームズがフランスの国家的問題に対応していた(『最後の事件』)ということとの関係が気になる。想像をたくましくすると、モリアーティを監視していたホームズが、東洋からの若い留学生・平山の無垢な好奇心が犯罪王につけ込まれることを恐れて、イギリスでもフランスでもなく、ドイツのほうが研究環境がよいというアドバイスを送ったとも考えられる。かの犯罪王が、天文学と数学を餌にして世界中から優れた頭脳を集めようとしていたのを、探偵が阻止したのではないかという推測である。

なお、ホームズが天文に関してまったく無知(『緋色の研究』)とされているのは、ワトスンの手記にありがちな勢い余っての弄筆か、ホームズがワトスンをからかったためと考えられるが、それにしては描写が真に迫っているので、探偵が天文学を毛嫌いしており、そのことが、よりモリアーティへの敵愾心をかき立てた可能性もある。これに関しては、若き日に、数学と天文学の才能にあふれた家庭教師と対立したトラウマであることを示唆する説もある[10][11]。とは言え、ホームズの数学的な能力が高かったのは間違いがない。ただし、文献[3]の執筆者のひとりもHolmes姓であるが、力学系の権威であるこの教授が、かの探偵の血縁であることは確認されていない。

ちなみに、ホームズと日本の関係では、彼がロンドンで夏目金之助に会って強い印象を持ったのは、この約10年後、1901年前後のことになる[12][13]。

モリアーティの『小惑星の力学』は、所在も内容も不明だが、その内容の推定は、黒後家蜘蛛の会という集まりで示された推理がひとつの定説となっている[14]。上記年表のカークウッドの空隙、地球近傍小惑星、トロヤ群にも触れ、一般相対性理論に基づく水星の近日点移動にも言及するなど、筋の通った推理である。しかし、それが、ポアンカレの三体問題の重要性に深く触れていないのは、残念と言わざるをえない。三体問題のカオス的振る舞いに関して、モリアーティがポアンカレに先んじて研究していたのではないかという推測は、きわめて魅力的だ。

黒後家蜘蛛の会における推理では、小惑星のトロヤ群の軌道を、「それは一世紀も前に、すでにラグランジェによって解明されている」としている。それ自体は間違いではない。しかし、ラグランジェによる正三角形解は特殊な条件下のものであり、三体問題は、きわめて複雑で手強い。これらの問題は、たしかに古典力学を扱うが、だからといって、会のあるメンバーが言うように「二流の上」の業績と見るのは皮層な見解だ。カオスという概念が注目を浴び、その文脈でポアンカレの業績に光が当たるのは、会の推理が発表された時期より数年後になるので、黒後家蜘蛛の会のメンバーもそこまで目配りできていなかったのだろう。

黒後家蜘蛛の会の立論は、著作のタイトルのAsteroidが "Dynamics of an Asteroid"と単数であることも重要なポイントだが、三体問題であれば、タイトルの小惑星が単数であっても、太陽、木星、小惑星の力学の問題として矛盾はない。数々の小惑星は、ある意味、三体問題の実験場であり、簡単に軌道が決まらない天体が発見された場合、それが理論の実例となる。モリアーティの著作は、「ある小惑星」の軌道に即しての考察だったのではないか。いっぽうで、単に個別の問題ではなく、こうした力学系の問題が、「純粋数学」(物理学ではなく)の問題と呼ぶのに相応しい側面があることも強調しておきたい。それはまさにポアンカレが示したことである。不安定性と秩序の関係という意味で、犯罪王に相応しいともテーマとも言える。モリアーティ自身は、この研究に、純粋に学問的な誇りを持っていたのではないか。

ただ、以上の推定には同様の見解がすでにあるようだ[15]。独自の見解をつけ加えるとすれば、モリアーティの研究が、上の年表でやや強調したティティウス=ボーデの法則、つまり、惑星の位置を決める奇妙な数式の解釈とも結びついていたのではないかということだ。ヨハネス・ケプラーの『宇宙の調和』にあるような数秘術的な思想に似たこの法則は、偶然の一致の要素が大きいと考えられ、数学的物理学的な根拠は与えられていない。疑似科学に近い経験則が、科学的発見の指針になった、科学史的に見てもたいへん興味深いエピソードである[16]。しかし、モリアーティが真の天才であれば、これに解釈を与えていても不思議はない。さらにそれが、今日でいう複雑系の理論と結びついて、たとえば、リミットサイクルなどによる自己組織化現象のようなかたちで説明されていたとすれば、仮にそれが誤りであったとしても、まさに画期的で、時代を超越した天才の業績である。

最近発見された、セバスチャン・モランの手記[17]は、『小惑星の力学』を侮辱されたモリアーティの復讐劇を記すが、そのきっかけとなった、王室天文官(グリニッジ天文台長)ステントの侮辱の言葉が「この小惑星は、軌道を外れているのです。天体というのはそのままの状態を保つものですから、これは容認されません。(略)小惑星は、我々の同僚が主張しているような動き方はしないのです」というものであったのは見落とせない。この記述を読む限り、ステントは、別文献に記されたステント[18]にも増して、到底優れた学者とは思えないが、モリアーティの研究の内容が、天体のカオス的挙動を述べたものであることを示唆しており、重要な記録である。

カオス理論や複雑系の理論の萌芽的研究が、夏目金之助(漱石)の教え子である寺田寅彦によってもなされているのは興味深い。比喩的に言えば、ホームズとモリアーティと夏目は、三体問題の様相を呈している。ちなみに、漱石(Souseki)と寅彦(Torahiko)、平山(Hirayama)も小惑星の名(小惑星番号4039、同6514、同1999 )になっている。寺田は奇妙な論文も読むひとで、たとえば、夏目による文献 [19]に示された「首縊りの力学」の発想は、ヴィクトリア朝の数理学者・サミュエル・ホートンの論文を参考にしたことが知られている [20]。なかなかに物騒な論文であるが、ホートンとモリアーティの関係は不明だ。このこと一事をもって推測するのはいささか早計だが、夏目がロンドンで『小惑星の力学』を入手し、それが寺田の手に渡った可能性を想像してみたい。

『小惑星の力学』が画期的な著作であった可能性はある。いずれにせよ、それは私家版のようなものだったのだろう。評判は聞こえるのにかかわらず、今日、著作そのものは見つからない。残念ながら、現状では、多くの研究者が著作の実在自体を信じておらず、発見の望みも薄い。ただ、ワトスン博士の未発表の文書が見つかることは、なぜかきわめて多く、最近はモラン大佐の手記まで発見されたので、関連情報が得られる可能性はある。今後の調査に期待したい。ただし、モリアーティの理論が、博物学者・ジョージ・エドワード・チャレンジャー[21]と異星の文明によってさらに発展したという記録[22]は、さすがに信じるに足らないであろう。

[1]『シリーズ現代の天文学9 太陽系と惑星』、渡部潤一他編、2008
[2]『現代天文学講座2 月と小惑星』、古在由秀編、1979
[3]『天体力学のパイオニアたち(Celestial Encounters - The Origins of Chaos and Stability)』、Florin Diacu、Philip Holmes著、吉田春夫訳、原著1999
[4]『日本の天文学の百年』、日本天文学会、2008
[5]『The Asteroids: History, Surveys, Techniques and Future Work』、T. Gehrels(『Asteroids』edited by T. Gehrels、1979所収)
[6] https://jfconsigli.wordpress.com/accueil/dans-lhistoire/charlois/
[7] 『Dictionary of Minor Planet Names』、L. D. Schmadel、 Third Edition、1996
[8]『犯罪王モリアーティの生還』、ジョン・ガードナー 、宮祐二訳、原著1974 (未読)
[9]『小惑星の力学』ロバート・ブロック(『シャーロック・ホームズの栄冠』北原尚彦編訳、2017所収)、原著1953
[10]『シャーロック・ホームズ ガス燈に浮かぶその生涯』、W・S・ベアリング=グールド、小林司・東あかね訳、原著1962
[11]『シャーロック・ホームズ氏の素敵な冒険(7パーセントのソリューション)』、ニコラス・メイヤー、 田中融二訳、原著1974
[12]『黄色い下宿人』山田風太郎、1953
[13]『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』島田荘司、1984
[14]『終局的犯罪』『黒後家蜘蛛の会2』所収)アイザック・アシモフ、池央耿訳、原著初出1975
[15]『ポアンカレ、モリアーティと『小惑星の力学』』清水健、2013 (未読)
[16]『小惑星』平山清次、1935
[17]『赤い惑星連盟』『モリアーティ秘録』所収)キム・ニューマン、北原尚彦訳、原著2011
[18]『宇宙戦争(ふたつの世界の戦争)』ハーバート・ジョージ・ウェルズ、原著1898
[19]『我輩は猫である』夏目漱石、1905-1906
[20]『寒月の「首縊りの力学」その他』中谷宇吉郎、1936
[21]『失われた世界』アーサー・コナン・ドイル、原著1912
[22]『シャーロック・ホームズの宇宙戦争』マンリー・W・ウェルマン、ウェイド・ウェルマン、深町眞理子訳、原著1975

『○△□ How many』など2019/04/08 21:01

かっこいいかぶと
4/28(日)13:00-15:00、府中市郷土の森博物館で、「かっこいいかぶと」を講習します。
「折るのはむずかしくないけれど、ちょっとかっこいい」をテーマにした作品です。

先週末、竹芝のギャラリーで開催されていた戸村浩さんの展覧会『○△□ How many』を見てきた。ほんとうにひさしぶりに、戸村さんにも会えた。平面キャンバス作品。以前、堀内正和さんの版画について書いたのと同様に、絵から受ける印象は「抽象」ではない。「抽象」には「一般化」の意味があるが、「この図形」を愛でるという「具体的」な感覚があるのだ。

竹芝客船ターミナル・鼈甲鮨
ギャラリー近くの竹芝客船ターミナルにあった「鼈甲鮨」の暖簾の絵が、ちょっと折り紙っぽかったが、帆の部分はなぜか尖らせていない。

◆春のキャンパス
土曜日に散歩していて、東京外国語大学の入学式後のにぎわいに遭遇した。大学名を表すTUFSモニュメントの前には、記念写真を撮るために、新入生と家族が行列をつくっていた。話には聞いていたが、新入生の黒いスーツ率が高くて驚いた。何年も入卒業式の類に参列する機会がなかったので、不思議な風景に見えた。ただ、新入生のスーツは黒かったが、春先のキャンパスには浮き浮きしたものがあった。各地の大学でも、折り紙サークルの勧誘が行われているのだろうなあと想像した。その昔、折り紙サークルなんてカケラも想像がつかなかったけれど。

もやもやの解決など2019/04/15 21:28

以下、またまた長々と書いてしまった。

◆時代だと思わない
海部宣男さんの訃報があった。闘病中と聞いていたけれど、薬石効なく。この1年すこしの間に、間接直接にわたしの人生に関係したひとが、相ついで亡くなった。時代の区切りのように思えてしまうが、これは、わたしがそういう年齢になったということなのだろう。改元とシンクロナイズしているかに思えるのも、次の天皇とわたしの年齢が近いからにすぎないのだろう。

芥川龍之介が、『侏儒の言葉』の遺稿部分に、「昭和改元の第X日」などと書いているのは、どういう心境だったのだろう。なんで年号を気にしていたのだろう。たとえば、以下。

眠りは死よりも愉快である。少なくとも容易には違ひあるまい。(昭和改元の第二日)
『侏儒の言葉』遺稿 芥川龍之介)

わたしは、時代がどうだとか思わないように過ごしていきたい。ただ、さきに逝ったひとは、これからのひどい光景を見ないですんだのかもしれない、と思うことはなくもない。しかし、これは、若いひとにたいして申しわけない考えである。

(話は、まったく変わって)
◆ブラックホール
EHT(イベント・ホライズン・テレスコープ:事象の地平線望遠鏡)による、M87銀河の中心核(おとめ座A : Vir A)のブラックホールシャドウの画像が大きな話題になった。新聞の一面に載るほどに話題になった理由は正直よくわからないところもあるが、天文観測の一端にいる者として、こうした成果が大きくとりあげられるのはうれしく、文字通り「絵になる」成果であるのは間違いない。

すこし前、『数学セミナー』『数学短歌の時間』(題:原点)に、天の川銀河の中心(いて座A* : Sgr A*)を詠んだ歌を投稿した。選歌されなかったが、野辺山観測所の技術スタッフとしての実感を素直にこめた歌である。

仰ぎ見る銀河座標の原点(オリジン)の彼方にひそむブラックホールよ

銀河座標というのは、天の川銀河の中心を原点に、銀河面を銀緯0度にするようにして決めた天球座標だ。その原点、すなわち天の川銀河の中心にも、超大質量ブラックホールがある。

超大質量ブラックホールとして一番近くにあるのは、われわれの銀河の中心Sgr A*なのだ。それはM87の中心核よりずっと小さいが、近くにあるので、事象の地平線(面)の見た目の大きさ(視直径)は、M87の中心核と同じオーダーになるらしい。いずれにせよ、事象の地平線を見ようと思った場合、恒星質量ブラックホールは、近くにあっても小さすぎるので、銀河中心核の超大質量ブラックホールでないと、そもそも難しい。Sgr A*は、EHTの観測対象天体のひとつでもある。では、なんで今回の観測がSgr A*ではなかったのか。これは、ミリ波帯で観測したSgr A*の時間変動が大きいので、撮像が難しいからだという。

EHTで使われたVLBI(超長基線電波干渉計)は、遠く離れた複数のアンテナの同時観測のデータの相関をとり、それらから画像を合成し、空間の分解能を上げる観測である。M87の中心核も、Sgr A*も、地球大の規模のベースラインによる解像度がないと目的の構造は見えないのだが、その観測は、地球の動きも使って仮想的な望遠鏡の鏡面を埋めようとするので、基本的に長時間の観測を必要とする。よって、短時間のスナップショットには向いていないのである。ただし、Sgr A*のVLBI観測も、平均化や、逆に時間変動を含めた疎性モデリング(少ない情報量からのモデリング)で、興味深い成果が得られる可能性もあるという。

(またまた、話は、まったく変わって)
◆もやもやの解決その1
3年前、『数学セミナー』の別冊『数学ガイダンス2016』に、『折って楽しむ数学セミナー・番外編・円環七色地図』という記事(折り紙的工作+エッセイ)を書いた。そこで、作家・堀辰雄が少年時代に数学者を志望していたという話題に触れ、ポール・ヴァレリーが数学に憧れていたこともからめて、「数立ちぬ。いざ生きめやも」という地口でしめくくった。ただ、このエッセイを書いたさい、いろいろ調べたのだが、辰雄が数学者になりたかったという話のしっかりした典拠を確認できず、エッセイも、「数学者を志望していたそうです」と、推定文にした。

関連の話は、上記記事を書いたさい、このブログに「折り紙が苦手な堀辰雄 」としても書いた。(そこに、辰雄 の『羽ばたき』にジジとキキという少年が登場するということも書いたが、これに関しては、『魔女の宅急便』の原作者の角野栄子さんが、名前をそこからとったということを、あとから知った)

先日、辰雄が数学者になりたかったというこの話の証拠を見つけた。『文藝 1957年2月臨時増刊号・堀辰雄読本』掲載の『堀君と数学』(吉田洋一)というエッセイである。吉田洋一さん(1898 - 1989)は、岩波新書の古典『零の発見』や、第1回日本エッセイスト・クラブ賞の『数学の影絵』など、一般向けの文章の筆も立つ数学者だが、辰雄が一高の生徒だったときの数学教師で、その後の交流もあったというひとなのであった。その記述は以下である。

 この最後の会見(引用者注:辰雄が逝く前年1952年に会ったさい)のとき、何かの話のついでに、堀君が高等学校へはいるとき、どうして理科を志望したのかをたずねたことをおぼえている。そのときの答えによると「数学を専攻するつもりでした。中学時代には数学が学校中で一番よくできたんです。それが四年生から高等学校にはいったので三角や立体幾何をよく知らなかったため、だんだんわからなくなってしまったんです」というようなことであった。このとき、わたしは「数学のどういうところに興味をもったか」を詳しくきいてみたかったのだが、病人にあまりこみいった話をさせるのもどうかと思ってさしひかえてしまった。
 (略)
 こんなことをいったからといって、何も堀君の作品と数学の間に糸をむすべるだろう、などといっているのではないことを最後にことわっておきたい。ちかごろ、俳句を論ずるのにカントルの集合論をふりかざしたりする人などがいるが、わたしはこういう傾向を苦々しいことと思っている一人なのである。
『堀君と数学』1957:『堀辰雄全集別巻二』1980)

最後の苦言も、ほんものの数学者の面目躍如たるものがある。

◆もやもやの解決その2
ブルーノ・ムナーリさんの『正方形』(阿部雅世訳)に、「中国のことわざ」として載っていた「無限は正方形をしている。ただし角はない。」の出典が(たぶん)わかった。これも、出典はどこだろう、どこかで見た記憶もあるのだけれどと、気になっていたのである。

この「解明」は、先日このブログにも書いた話、「吾唯知足」が説教くさいので「足」を「呆」にするということを思いついたこと、それが始まりだった。これはこれで面白いと思ったのだが、まじめに「知足」ってなんだろう、とも考えた。「知足」は『老子』を典拠とする、という記述を見かけて気になったのだ。そこで、本棚から、二十歳のころに読んでいた『老子』を引っ張り出した。

全八十一章の『老子』で、「知足」がでてくるのは、ざっと見た限り、三十三、四十四、四十八章だった。このうち、四十四、四十八章は、「足るを知る」の一般的な印象に近いこと、すなわち、物欲が泥深い沼であることを述べていたが、三十三章はすこし違うニュアンスであった。意訳気味に訳すと、以下である。

ひとを知る者は聡いが、自分を知る者こそが賢い。ひとに勝つ者には力があるが、自分に勝つ者が強い。充ち足りたと思えば豊かな気持ちになるが、努力する者もあり、それは志があるからだ。いるべき場所を失わない者は長生きするが、死しても亡びない者を長寿という。

知人者智 自知明 勝人者有力 自勝者強 知足者富 強行者有志 不失其所者久 死而不亡者
寿

ふたつづつの文言を逆接で結ぶようにしたのは、だいぶ恣意的な訳だと思うが、それぞれの後者のほうが、より言いたいことではないか、ともとれる書きかたなのだ。「よいこと言ったでしょ。でも、さらにね」という修辞技法である。つまり、「知足者富」は、「強行者有志」の前振りのようにも読める。そのように読めば、これは、分相応のすすめなどではない。

そもそも『老子』『老子道徳経』)は、思想や倫理を大系的に示した書というより、気の利いた箴言集のたぐいと考えたほうがよいものだ。老子そのひと自体、実在も定かでなく、前後矛盾することも書いてあり、一種の皮肉なのではないか、と思う言葉も多い。たとえば、三章の「常に民を無知無欲にして 知恵者にはあえてなにもさせない。何もしなければ、(世は)治まらなくもない(常使民無知無欲 使夫知者不敢為也 為無為 則無不治)」などは、すくなくとも現代人の感覚からは、皮肉にしか思えない。

『老子』が気の利いた言葉を集めた箴言集であるという話は、寺田寅彦も書いていたという記憶があった。探してみると、『変わった話 一電車で老子に会った話』の中にそんな記述があった。なお、『電車で..』という奇妙な題名は、電車の中で『老子』を読みふけってしまったという意味である。寅彦が熱中して読んだのは、アレクサンダー・ウラールというドイツ人の訳した『老子』である。

哲学の講義のようでもあり、また最も実用的な処世訓のようでもあり、どうかするとまた相対性理論や非ユークリッド幾何学の話のようでもある。そうかと思うと、また今の時節には少しどうかと心配されるような非戦論を滔々と述べ聞かすのであった。
(略)
このドイツ訳がどれくらい原著に忠実であるかということは自分には分かりかねるが、(略)このドイツ訳の方がともかくも話の筋がよく通っていて読んで分かりやすいことだけはたしかである。例えば「大方無隅。大器晩成。大音希声。大象無形。」というのを「無限に大きな四角には角がない。無限に大きい容器は何物をも包蔵しない。無限に大きい音は声がない。無限に大きな像には形態がない」と訳してある。「大器晩成」の訳は明らかにちがっているようではあるが、他の三句に対してはこの訳の方がぴったりよく適合するから妙である。

これを読んで、あっ!と思ったのだ。大方無隅! これこそが、「無限は正方形をしている。ただし角はない。」の出典なのではないか。まず間違いがない。そして、「吾唯知足」を真ん中を正方形にして配置するのも、一種の「天円地方」の「地方」、すなわち、世界を正方形としてみる思想と関係しているのかもしれない、とも思った。

もやもやが解決したという話はここまでなのだが、連想はまだ広がった。まず、ドイツ語訳された『老子』ということで、あれもそうか!と思ったのである。ブレヒトの詩『老子の亡命の途上で道徳経が成立するという伝説』である。彼が老子に接したのも、このウラールというひとの翻訳によってではないだろうか。

連想は、さらにひろがった。ブレヒトの詩は老子の亡命、いわゆる「老子出関」の伝説をもとにしているが、同じ伝説をもとにした別の話がある。魯迅の『出関』である。自宅の書架で、それを探した。これは見つからず、かわりにというか、カバーをかけたままの魯迅の『野草』を発見した。書店のカバーは外すことにしている(最近はつけてもらうこともない)ので、なんで、カバーがついているのかと思ったら、そこにレシートと硬貨の絵が書いてあり、それで捨てられなかったようであった。当時の自分の暇さというか、意味のない時間の使いかたに、妙に感心した。岩波文庫が星の数で価格が表示されていた時代のもので、白星ひとつ100円だが、生協の割引で90円である。
『野草』(魯迅)

というわけで、そのころの気分がさらによみがえった。そのころのわたしは、魯迅によるサンドールの詩の一節「絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じい」(絶望なんてないよ。希望がないようにね)という言葉に惹かれていた。また、『老子』二十章の言葉にも、身をつまされていた。『老子』の二十章は、ある種の若者にかなり「くる」言葉なのだ。

(意訳)
学ぶことをやめてしまえば憂いはない。(略)世のひとは、楽しそうにしてご馳走を食べているようで、春の日に高台にいるようだ。わたしは独り怖気づいて何の兆しもなく、まだ笑わない嬰児のようだ。(略)世の中のひとはなにをするかを知っているのに、わたしだけは真っ暗だ。世の中のひとは何をするかわかっているのに、わたしだけは悶々としている。(略)だれもが自分を持っているのに、わたしだけは頑なに引きこもっている。わたしは独りひとと違っていて、乳母に生かされていることに甘えている。

絶学無憂 (略) 衆人煕煕 如享太牢 如春登台 我独怕兮其未兆 如嬰児之未孩(略)俗人昭昭 我独昏昏 俗人察察 我独悶悶 (略)衆人皆有以 而我独頑似鄙 我独異於人 而貴食母

このモラトリアム感! 最後の「我独異於人 而貴食母」は、「だが、わたしはひとと違い、母なる「道」に生かされていることに感謝しているのだ」などと、哲学的な言葉に解釈されるのが通常で、そういうものなのかとも思うが、「嬰児のようだ」という比喩に対応して「乳母(や家族)の世話になっている」と、そのままにとってしまったほうがよい気がするし、そのほうがぐさりときた。

さて。「老子出関」に題をとった魯迅の『出関』であるが、これは、読んだつもりでいたが、未読だった。花田清輝さんの『魯迅』という題のエッセイに、戦中にこの『出関』を愛読していたということが書かれていて、わたしは、それを読んで、魯迅のものも読んだ気になっていたのようだ。花田さんはそこに、「黄塵の渦まくなかを、のろのろと、砂漠にむかって消えていく老子のすがたを、私は愛した」と書いていてる。

あらためて『出関』を読んでみると、ブレヒトより皮肉や戯画化の面が強く、魯迅自身の自嘲のようにもとれる話だった。魯迅は、自嘲ということは否定しているようだが、自身を含めた知識人というものに対する皮肉が含まれているのはまず間違いない。しかし、そうであっても、そこに描かれる老子そのひとは、情けないがゆえに魅力的なのであった。だいたい、伝説などから読み取れる老子の人物像も、まったく聖人などではない。なにせ、我独悶悶である。魯迅の筆は、そうしたニュアンスをきちんとすくい取っている。『老子道徳経』を「道徳」の元祖として持ち上げるのもずれているが、魯迅の『出関』を、空理空論の非実践者への批判とのみ読む見かたもつまらないものだ。

◆『老子図』と『百福図』
というわけで、老子がにわかにマイブームとなったこともあって、昨日、府中市美術館で開催中の『へそまがり日本美術』展に行ってきた。入れ替えの多い展示の前期最終日であった。同展は、徳川家光の脱力する絵が大きな話題になっているが、仙厓と蘆雪の『老子図』も展示されているという情報があったのだ。残念ながら仙厓のそれは展示がなかった(詳細な事情は不明で、後期も展示がないらしい)が、蘆雪のそれはよかった。これらの絵にも、老子の情けない感じが描かれている。(図録には仙厓も載っている)

『へそまがり日本美術』展@府中市美術館 図録より、長沢蘆雪(左)と仙厓義梵(右)の『老子図』
『へそまがり日本美術』展@府中市美術館 図録より、長沢蘆雪(左)と仙厓義梵(右)の『老子図』

同展は、キュレーションの勝利というべき展示で、ほかにも面白い絵がたくさんあった。きわめて個人的な興味での収穫のひとつは、岸礼(1816-1883)というひとの『百福図』である。百福と言いながら、じっさいには145人のお多福さんが描かれ、彼女らが思い思いのことをしている絵だ。その中に、折鶴を発見したのである。いせ辰の江戸千代紙『大吉百福』の中にも折鶴があったので、ここにもあるかと思って探して見つけた。

『へそまがり日本美術』展@府中市美術館 図録より、岸礼『百福図』の部分。
『へそまがり日本美術』展@府中市美術館 図録より、岸礼『百福図』の部分。

『街角の数学』、そして、ノートルダム大聖堂の話など2019/04/20 10:11

◆51
51
イチロー選手の背番号の51というのは、もしかしてSuzkuki 1-roの「頭文字」の「S 1」、もしくは、Suzkuki Ichiroの「S I」を「51」に見立てたものなのか、と思ったのだが、すくなくとも最初につけたときにはそんな話はなくて、空き番号だったということだけらしい。

51=3×17であり、17といえば、ガウス御大による正十七角形の作図があり、3と17は互いに素である。つまり、正五十一角形は、正十七角形の作図と正三角形の作図の組み合わせで、定規とコンパスで作図できる。
正51角形
それを示す図を描いて見た。すると、正五十一角形がほとんど円に見えて、なんの図なのか、いまひとつわからなくなってしまった。この図の青い線は円ではなく、正五十一角形で、赤と緑の丸は、その頂点ふたつを示すものなのだが、この解像度ではそうは見えない。

ところがである。数値計算をしてみると、円の直径を1としたとき、内接する正五十一角形の周の長さは3.1396...、外接する正五十一角形の周の長さは3.1455...で、そんなによい近似という気もしないのであった。これはつまり、よほどのことがない限り、実用的な円周率は3桁の近似3.14で充分だということを示している。

◆『街角の数学』
五輪教一さん、山崎憲久さんから、新著『街角の数学』をご恵贈いただいた。身の回りにあるものを和算的な視点、つまり図形を愛でる視点でたのしむ本だ。ぱらぱらとめくっていると、「丸窓」と題されたコラムに、さきごろ火災にあったノートルダム大聖堂の薔薇窓の写真があった。

ちょうどわたしは、火災のニュースを聞いて、この薔薇窓に関して、まさに街角で数学したことを思い出しているところだった。11年前、パリに行ったさい、わたしはこの窓を見て、その意匠をあれこれ考えたのだ。どこにも記録していなかったものだが、以下、その話を思い出してまとめてみた。

ノートルダム大聖堂
ノートルダム大聖堂の南面(11年前)

写真は、火災前のノートルダム大聖堂の南側である。真上から見て十字架になっている屋根(4月15日の火災で燃え落ちたものである)の、横木の先端にあたる。この写真にも写る上部の小さい丸窓は、激しく損傷したというが、不幸中の幸いというか、大きく美しい薔薇窓は、反対側の北の窓とともに損壊を免れたという。

ノートルダム大聖堂・南の薔薇窓
南の薔薇窓

この薔薇窓は、大きい正方形に円を内接させ、その円を十二の花弁(十二使徒と関係するらしい)で分割したかたちが基本になっている。これを見たときに面白いと思ったのは、そこに、ルーローの三角形が使われていたことだった。

ルーローの三角形というのは、辺を円弧にすることで、どこをとっても等幅になっているかたちで、ロータリーエンジンのローターや、パナソニックの掃除ロボットに用いられているものである。この図形に名をのこす工学者・フランツ・ルーローがプロイセン(ドイツ)に生まれたのは、ノートルダム大聖堂ができてから約六百年後のことだが、このかたち自体はより古くから使われていたのであろう。

教会建築の意匠の歴史や、ノートルダム大聖堂の建築史などに関しての知識はなく、この窓の意匠が特別なのかそうでないのかも知らないのであるが、後述するように、北側の窓とも異なっていて、かなり珍しいものに思えた。

まず、なぜルーローの三角形かというとことである。円周上に並ぶものは、厳密にはルーローの三角形ではないので、全体の四隅で見てみる。大きい円と正方形のすきまに、中に六つの花弁のある小さい円が接し、さらにそのすきまに、ルーローの三角形が接し、その中に三つの花弁がある(図1)。

枠の中にあるそれぞれの花弁は、見た限り、互いに外接する円からできている。六つの花弁の枠が円であるのにたいし、三つの花弁の枠はルーローの三角形なのだ。それはなぜか。それは、三弁のときに花弁を大きくするためとみてまず間違いがない。三弁の枠を円にすると、図2のようになるが、それだと花弁が小さすぎるのだ。
薔薇窓の作図の検討

つぎに、ルーローの三角形の向きである。それらは、図1の赤い線のように、正方形の辺に円弧の二分点が接する向きになっている。しかし、それは、このすきまに接する最大のルーローの三角形ではない。最大のものは、これよりやや傾いたものになる。図3の青い線である。この向きを決める計算はかなり難しくなり、直角にしたほうがわかりやすいのだが、内接する三弁を大きくするということに限って言えば、図1は合理的ではない。

しかし、よく見ると、この向きには、別の意味があることがわかる。ふたつのルーローの三角形の向きに沿った線の交点が、内側の大きい花弁(これらは大きい円の円周にとどいていない)の先端に一致しているのだ(図4)。補助線をひく(図4の緑の線)と、図がとても「きれい」なのである。

まとめると、この意匠を考えた建築家や職人は、十二弁、六弁や四弁はともかく、三弁の花という、正方形とはやや相性が悪い意匠を用いながら、それがうまく馴染み、正方形と喧嘩しないように、デザインを進めたのではないか、ということである。そもそもなぜ三弁が多用されたのかというと、たぶん三位一体の象徴といった意味があるのだろう。なお、パーツの中に見える四弁のものは、円の枠を使っておらず、三弁にも、花弁の円が重なるかたちでより円に近くして枠を使っていないものもある。

ここで、北側の薔薇窓にも簡単に触れよう。残念ながら写真を撮り損ねたのだが、そこに、ルーローの三角形はなく、三弁の花弁の枠も円になっていた。そのままでは、上述の南窓で説明した理由で花弁が小さくなってしまうので、円が重なるようにしていた。三弁の向きも、南窓とは異なり、中央の十二弁の花弁の先端も、大きい円の周に接したかたちだった。北窓は、南窓に比べて単純なのだ。

上に「四隅」と書いたように、薔薇窓の上部の隅も同じ意匠になっている。ただし、そこにはガラスは嵌め込まれていない。これは、内側から見たときにアーチ状に見えるようにしたためだろう。

内側からといえば、11年前のわたしは、参拝者が列をなしていたので、中からこのステンドグラスを見るのを諦めた。ステンドグラスというのは、暗い室内から光を通して見ることを考えてつくられるものである。わたしは、この薔薇窓の一番美しいところを見ていない。世界で最も美しいステンドグラスとも言われるその様、火災にも耐えたその麗姿を、機会があったら見たいと思っている。しかし、ふらんすへ行きたしと思えどもふらんすはあまりに遠い。