日食2019/01/06 22:12


日食
ボール紙(折紙者なら、折紙用紙パックの中にはいっているので、必ず持っている)に、小さな穴を開け、影を壁に映して見た、今日の部分日食である。ピンホールカメラは上下左右が反転する倒立像になる。今年は12月26日にも部分日食があるので、お試しあれ。
ピンホール

日食といえば、ちょっと確認したいことがあって、昨日、シャーロック・ホームズ譚の『恐怖の谷』を読んでいたら、スコットランドヤードのマクドナルド警部が、ジェームズ・モリアーティ教授から日食の原理の説明を受けたという話があって(まったく覚えていなかった)、驚いた。同じ日わたしは、親戚の子に日食の原理と観測方法を説明したのであった。モリアーティ教授に関しては、話題がいくつかあるのだが、またいずれ。

小鳥など2019/01/13 21:38

◆小鳥
先日、山荘の玄関にヤマガラのなきがらがあった。「ヤマガラのなきがら」と、はからずも韻を踏んだかたちだが、きちんと置いてある感じで、たぶん、近所の猫からのプレゼントだろう。猫はそれが本性なのでしかたがないが、埋めて弔った。なんだか小鳥が愛おしくなり、ふっくらした小鳥の折り紙を考えてみた。シンプルながらよい感じの立体感を出すことができ、納得のできである。バランスよく立ってくれたのがうれしい。
小鳥

この作品には、工程上の意外性として、arctan( √2)=54.73...°を、90×5/8=56.25°とみなす近似がある。「あれ、ここで合うはずがないのに合っている」というのは、-それはじっさいに幾何学的に合っていることも、近似のこともあるが- 、折り紙のたのしみのひとつだ。すくなくともわたしとって。尾羽と畳んだ翼はもうすこし工夫しようとも思ったが、この近似もあって、単純なままにした。

隅谷和夫さんから招待券をいただいていたので、先日、蒲田で開催中の「特撮のDNA」展に行ってきた。隅谷さんは、コレクションの中から4点を展示しているということだった。
かなり前のことになるが、隅谷さんの家に行ったことがある。そこは、映画で使ったものがふつうに置いてある特撮の魔窟であった。

『地球最大の決戦』風
『地球最大の決戦』のタイトルで使われたというキングギドラのウロコでタイトル風にしてみた。

隅谷さんのサイン
隅谷さんのサインがあった。

オキシジェンデストロイヤー
初代ゴジラの撮影で使われたオキシジェン・デストロイヤーである。

芹沢博士を真似る
「ああ、こんなものつくるんじゃなかった」(目を痛めたときのわたしの写真。かなり前)
生まれる前の映画だが、眼帯をつけると、芹沢博士の気分になる。
子供のころに観た初代ゴジラはほんとうに怖かった。そのモチーフに、核と戦争のみならず、科学者の社会的責任もあることを知り瞠目したのは、後年のことである。

百合鴎、鴫、凍鶴2019/01/23 20:55

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白き鳥の嘴と脚と赤き しぎの大きさなる 水の上に遊びつつ魚を食ふ 京には見えぬ鳥なれば みな人見知らず 渡し守に問ひければ これなむ都鳥と言ふを聞きて
名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり

『伊勢物語』のこの段、都鳥の名で京を偲ぶ話は有名だけれど、あらためて考えると、「京には見えぬ鳥」(みやこにはいない鳥)が、なぜ都鳥という名前なのか、謎である。実は、渡し船の船頭さん、適当なこと言ったんじゃないの。
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先日、塚本邦雄さんの『秀吟百趣』を読んでいて、この疑問がぶりかえした。同書に、富安風生さんの句「昔男ありけりわれ等都鳥」が挙げられており、その「本歌」である『伊勢物語』のこのくだりが「簡潔で意を盡した文は絶品に近い」と絶賛されていたのだ。しかし、やはりわたしは、上の疑問が解消できないので、古典中の古典と言っても、すんなりと鑑賞できないのであった。

この問題に関して、平安時代の坂東では、鴎のたぐいを総じて「みやこどり」と言っていたのではないか、という説がひらめいた。なぜそう呼ぶのか。「みゃーこ」と鳴くからである。あはは。ウミネコが、その名のごとく猫のような声でなくのはよく知られたことだが、調べてみると、都鳥の正体とされるユリカモメも、やや濁っているが、似たような声で鳴く。『声が聞こえる野鳥図鑑』(上田 秀雄、 叶内 拓哉)で調べたので間違いない。他の鴎も同様で、みゃあみゃあ、ゐあゐあと鳴く。太宰治が『鴎』『火の鳥』の中で、「鴎は、あれは、唖の鳥です」と書いているが、じっさいの鴎はよく鳴く。いざこと問はむみゃーこどり。岩手県の宮古という地名は、中世以前の記録にはないそうだが、同地の浄土ヶ浜は、いつからかは知らないが、ウミネコの繁殖地のひとつで、いまは市の鳥にもなっているので、地名の由来に関係があるかもしれない、などとも想像する。

これでわたしは納得だったのだが、調べてみると、とくに新説というわけではなく、鳴き声からみやこどりと呼ばれるという話は、すでにあった。たとえば、幸田露伴は、最晩年の一書『音幻論』(1947)にこう記している。

あの伊勢物語の業平の歌の都鳥は、都の鳥の意味ではなく本来はミヤとなく小鳥の意味で、都の字を填したのは歌の上での作略で業平以前に萬葉集巻二十に、大伴宿禰家持、舟競ふ堀江の河の水際に来居つつ鳴くは都鳥かも、の一首が存する。

そして、耳にはさんだことがあったが、都鳥にはもうひとつややこしい話がある。ユリカモメとは別の都鳥がいるということだ。チドリ目チドリ亜目のミヤコドリである。これは、すくなくとも近世には都鳥と呼ばれていた鳥で、主にキュピッと鳴く。この鳥がなぜ都鳥なのかは、「みゃーこどり」説では説明がつかない。腹は白いが全体に黒く「白き鳥」とは言えないことなどから、『伊勢物語』の都鳥ではないとする説が有力だが、これこそが、業平の都鳥とするひともあり、それもあって、その鳥の現在の和名がミヤコドリになっている。たとえば、幕末の『都鳥考』(北野鞠塢、1814)は、「飛ヲ下ヨリ見レバ白キ鳥ニ見ユ」とか、「くの字を筆意によりて し とも違ひ」と記し、この鳥を業平の都鳥に比定しようとしている。しかし、『都鳥考』を意識した、のちの『都鳥新考』(熊谷三郎、1944)は、これらの説を「雪を炭と言ふ譬」として退ける。じっさい、背中の黒いミヤコドリは、『伊勢物語』の都鳥ではなく、逆に『伊勢物語』『萬葉集』を元にした話が錯綜して、この鳥がそう呼ばれるようになった、と考えるほうが理が立つ。ちなみに、『都鳥新考』の序文は露伴が書いていて、これは『音幻論』の執筆時に重なるので、露伴の文章も『都鳥新考』を参照してのことと思われる。戦争中、時流にそぐわない英文の引用もある『都鳥新考』なる本を上梓した、熊谷三郎さん(1896-1954)というディレッタントじみた鳥類研究者のことは、とても気になる。

鳴き声も体色も違うが、ミヤコドリとユリカモメは、系統樹的にはチドリ目でまあまあ近縁だ。ひとことで水鳥といっても食性も異なるが、似たところはある。たとえば、水鳥は、雀の類や猛禽のような枝につかまる鳥と違って、垂直の細い足ですっと立つ印象が強い。鳥が飛ぶさまというのは、案外、画として思い浮かべにくいが、立っている姿は脳裏に浮かぶ。水鳥のそれは、姿勢よくまっすぐである。

などと考えているうちに、そのように、すっと立っている水鳥の折り紙を折ってみたくなったので、つくってみた。折鶴の基本形を丁寧に折るだけのモデルで、糊付け不要の構造とし、目安を明確にした以外に、アイデア、設計、技術のいずれもなんということはないものだが、姿勢よく立って、自然な立体感がでたので満足だ。鴎の脚には水かきがあり、鴫(しぎ)や千鳥にはなく、鴫や千鳥の脚のほうが長いので、どちらかというとその脚なのだが、いちおうユリカモメがモチーフである。水かきや爪をつくると、脚を細くできないのでやめた。
ゆりかもめ

さらに、鴫のお仲間ということで、西行の有名な歌が思い浮かんだので、できた折り紙作品を見ながら、古歌をもじって「心なき身にもあはれは知られけり都鳥たつ秋の夕ぐれ」と洒落たのだが、呟いてみて、ふと思ったことがあった。元の歌「心なき身にもあはれは知られけりしぎたつ澤の秋の夕ぐれ」の「たつ」は、「経つ(発つ)」、つまり、飛びたってゆくさまとするのが通説で、わたしもそう思ってきたが、鳥がじっと佇立していることの描写としてもよいのではないか、と。

思えば、西行の「心なき」と並べられる「三夕(さんせき)の歌」(『新古今和歌集』の秋の夕暮れを詠んだ三名歌)のひとつ、寂蓮の「さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕ぐれ」の「まき立つ」も常緑樹が立っているということで、定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ」もボロ家が立(建)っているということだ。「三夕」は後世の言なので、この三首に「秋の夕ぐれ」以上の共通性があるとも思えないが、羽音をのこして飛びたってゆくのではなく、凍ったようにただ立っている鳥という風情からもまた、あはれは知られるだろう。

とは言え、鴫や千鳥は泥をつついて餌をあさるので、せわしない動きをする。桟橋や浅瀬で佇む鴎のように、じっとはしておらず、長い脚で歩きまわる印象が強い。寂と騒の対照などと考えると、飛んでいったほうが劇的でもある。また、鴫は英語でsnipeである。「狙撃」と同じで、鴫は獲物を「狙撃」するのか、されるのかというと、狙撃されるほうで、鴫を狩る猟から、狙撃の意味でのsnipeが使われるようになったという。西行の時代にはむろん銃はないわけだが、snipeの語源を知ると、物音に驚いて飛び立つさまのほうが、鴫らしい気もする。

話がずれてゆくが、動かない鳥といえば、最近ではハシビロコウが有名だ。そして、俳句には「凍鶴」(いてづる)という季語がある。この言葉を奇想として使ったと思われる「折り紙関連句」も最近見つけて、これもかなり謎なので、その話も記そう。

折鶴のごとくに葱の凍てたるよ 加倉井秋を

わたしは、下向きの矢印が折鶴に見えてしまうことすらある折鶴好きだが、葱が折鶴に見えたことはない。尖った葱の葉先が折れ曲がっていると、折鶴の頭を連想しなくもないが、どうもピンと来ない。ということで、これは、数段の連想を経ての比喩なのではないかと考えた。凍鶴、すなわち厳しい冬景色の中にいる鶴の、典型的な図像のひとつは、一本の脚で立ち、もう一本の脚と長い首を翼の間に隠し、身じろぎもしないさまである。それは、一本の棒の上に綿毛がついたようなかたちだ。これは、葱の花、葱坊主に相似している。つまり、加倉井さんの句案は、葱坊主∽凍鶴→と鶴→の葉∽折鶴の頭という連想からきたのではないか、と想像したのだ。

凍鶴と折鶴では、次の句もあり、これまた気になるのだが、さらにわかりにくい。

クロイツェル・ソナタ折り鶴凍る夜 浦川聡子
 
ベートーベンのピアノソナタは好きな曲が多いが、ヴァイオリンソナタにはそういう曲がなく、さらに加えてクロイツェルソナタは、トルストイの同名の小説があって、どろどろの愛憎のイメージが強く、苦手である。ヴァイオリンソナタの演奏者が男女だった場合、それが不倫関係に見えてしまう責任を、トルストイには取ってもらいたい。といったこともあり、いろいろイメージがまとわりついていて、なんで折り鶴なのか、なにが凍っているのか、よけいにわからない。ヴァイオリンとピアノの音が響く冬の夜。冷え切った部屋に、誰がなんのために折ったのか、折鶴がある。音楽も折鶴も、本来はひとの気配を感じさせるものなのに、寒々しい。生演奏ではなく、ラジオかレコードで、部屋には誰もいない、とか。いや、やはり、わからない。わたしには、「手術台の上のコーモリ傘とミシン」的というか、三題噺のような句である。しかし、見過ごすことができない不思議さもある。

紙のフチなど2019/01/25 20:22

◆冬ひでりと紙のフチ
東京の1月の降雨量がわずか0.5mmだという。季語に冬旱(ふゆひでり)というものがあるが、まさにそれだ。寒旱ともいう。この季語は次の句で知った。

指切りし紙の白さや冬旱 保坂敏子

保坂さんは山梨のひとのようだが、山梨も基本的に冬は乾燥している。紙の繊維が乾燥すると、硬度が増し、断面の鋸歯状の構造が際だって、指を傷つけやすくなるのだろう。折り紙用紙も、それで指を切ったことはないが、パリパリしていて裂けやすくなっている。

紙で指を切る話に関連しては、川村みゆきさんが、「紙のフチ恐怖症」で、それを隠すためにも紙は折りたくなるんです、ということを言っていたことを思い出す。いまは以前ほどでもないとも聞いたが、あまり聞いたことのない「恐怖症」である。ここで問題。

問題:正方形の紙を平坦に折って、紙のフチを完全に隠すには、最小で何工程が必要か。なお、輪郭線上に、下位の層を含めて、フチが1点でも接する場合も、隠しきれていないとする。

新作が、1/26(土)22:45-23:00に放映される。 NHK Eテレ。
川崎敏和さんの作品がでてくるらしい。

『いちめんのなのはな』と『いちぐうののぶどう』2019/01/29 20:03


『いちめんのなのはな』と『いちぐうののぶどう』

布施知子さんから、平織り作品ふたつを手にいれ、額装した。いずれも、手染めの和紙を折ったものだ。もともと題名はついていおらず、そもそも具体的ななにかを表現したものではなかったのだが、布施さんとも相談して、色とかたちの印象から、『いちめんのなのはな』『いちぐうののぶどう』と題した。『いちめんのなのはな』は、もちろん、山村暮鳥の詩からとったものである。

『純銀もざいく』

『黄金もざいく』

「いちめんのなのはな」の「本歌取り」として、「いちぐうののぶだう(のぶどう)」をつかった詩も考えた。まず、「一隅」なので、「いちぐうののぶだう」は、詩句として一回のみにして、ほかは「ゆうぐれのそまみち(夕暮れの杣道)」で埋めた。元の詩で聴覚に訴える句は、やはり音を示す句にした。「かすかなる雁が音」と「小牡鹿(さをしか)の鳴く声」である。「小牡鹿」はすこし耳慣れない語で、文字数がうまく合うものが浮かばなかったからだが、きれいな言葉である。

『いちめんのなのはな』は、文字を視覚的に扱う「コンクリート・ポエトリー」の先駆とも言える詩である。『いちぐうののぶだう』を「ゆうぐれのそまみち」で埋めたのは、菜の花がであるのに対し、杣道がであるという理屈である。それを表現する記法として、文字のつながりを牛耕式の九十九折りにすることも考えたのだが、読めなくなるのでやめた。やめたのだが、これは、面ではなく線なのである。さらに、を対照させたのは言わずもがなだが、風景の基本も、として対比させた。

『いちめんのなのはな』は、たいへんわかりやすいように見えて、「病めるは昼の月」という句の負の印象と、純銀もざいくという題辞の謎が気にかかる詩でもある。諸説あるようだが、なにが銀なのかは謎のままにして、対照させて、題辞は『黄金もざいく』とした。

そして、布施作品の額の色は、さらに反転して、菜の花が金色、野葡萄が銀色になっている。

『いちめんのなのはな』と『いちぐうののぶどう』など