鹿と猪2018/11/03 10:58

数日前の朝、八ヶ岳山麓。観測所に向かう途中、道路を横断するリスに危うくぶつかりそうになり、ああ危なかったと思った直後、災難にあった狸を見た。さいわい獣と事故を起こしたことはないが、車を運転中、こうした場面に遭遇することはたまにあり、片手で「安らかに」と略礼をしている。そしてそれを「早く行け」という感じでカラスが見ている。

リスや狸はそもそもひとの近くで生きているが、この季節は、より大きい獣たちも近くに来る。古歌のとおりに、夜、鹿の鳴く声も聞こえ、ときには、すぐ近くで枯葉を踏む音も聞こえる。庭の木の皮を齧っているのに遭遇し、つかの間こちらを見つめたあと、脚を高く振り上げて走り去るのを見たことも何回かある。

奥山にもみぢ踏みわけ鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき
猿丸大夫

この歌に関して、紅葉を踏み分けているのは鹿なのか、歌を詠んでいるひとなのかという疑問があるらしいが、ふつうに考えて鹿である。映像より音の喚起力がある歌で、上のように、鹿の気配というのは、枯葉を踏む足音と鳴き声で感じる。

先日は、枯葉が掘り起こされた跡をみた。たぶん、猪が嗅ぎ回ったもので、キノコを探していたのだろう。山荘の周囲は、ハナイグチ(ジゴボウ)というひとが食べてもおいしいキノコが多い。ハナイグチの季節はすでに過ぎたが、今年はキノコは豊作だったという。どんぐりも豊作らしいが、それでも獣たちは近くまで来る。というより、山荘は、里ではなく、近世までは山だった領域にある。

なかなかに 鳥けだものは死なずして、 餌ばみ乏しき山に 聲する
釈迢空

『凶年』と題された一連の歌の一首だが、一読、忘れがたい。

猪といえば、先日、依頼というか打診があって、折り紙の猪の顔を試作した。仕事としてはなくなったが、試作品は悪くないできとなった。これを見た妻が「首だけだと、ほら、諏訪のジンチョウカンのあれを思い出す」と言った。長野県茅野市の神長官守矢史料館、御頭祭の展示である。その史料館に、古来よりの神事の展示があって、鹿や猪の首がデーンとあるのだ。縄文狩猟民というか、柳田國男のいう山人というか、『もののけ姫』のエミシ村というか、仏教文化と切れた古層を感じさせる信仰である。
シシガシラ(猪)

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