正多面体展開図のカタログ(堀山貴史氏)、理科年表、そして、富士山2017/12/22 21:25

正多面体展開図のカタログ(堀山貴史氏)
先週の土曜日は、折り紙の科学・数学・教育研究集会。それぞれの発表も興味深いものだったが、一番印象にのこったのは、堀山貴史さんが持ってきた正十二面体と正二十面体の展開図のカタログかもしれない。

以前、リストを見せてもらったさいに、「きちんとハードカバーで製本したほうが面白い」と話していたものだ。堀山さんは、まさにそのハードカバー版を持ってきた。正十二面体と正二十面体の展開図は、どちらも43380個あるので、1ページ100個掲載で434ページの「大著」である。

まずはネタ的に面白いのではあるが、ぱらぱらめくっていると案外飽きない。「ハミルトン路(つまり、枝分かれのない展開図)を探せ」なんてゲームもできるが、「理詰めなのに、ほとんど無意味」なので、見ていると一種の瞑想ができる。1-2ページの正四、六、八面体も加えて、全5巻にしてほしい。

これは、ただただ図が並ぶだ本だが、ただただ数値が並ぶ本というのもある。広い世の中、三角関数表や対数表を見て楽しむひともいるに違いない。わたしはその境地には達していないが、『理科年表』をながめるのは好きだ。『理科年表』は、11月末にでた2018年版が第91冊(1944-1946は未刊行)で、父とほぼ同じ歳だ。毎年大きく変わるわけではないが、見ているとなんとなくたのしい。

たとえば、今日の根室の日の入りが15時40分代であることがわかると、野辺山(長野)の寒さと北海道のそれは、平均気温だけでは測れないな、などと思う。おやつの時間がすこしすぎると陽が沈むのである。春が待ち遠しいだろう。ちなみに、日没が一番早いのは今日の冬至でなく、やや前の日である。これは、平均太陽時(時計の時刻)と視太陽時(日時計の時刻)に差(均時差)があるためだ。(前に書いたここも参照

一昨年の第89冊には、創刊90年の記念として『理科年表第1冊』(1925年)の抜粋がついていて、これの「本邦の高山」というページも興味深かった。1895年から1945年は、台湾が日本の占領下にあったので、富士山より高い台湾島の山が記されている。

富士山より高い台湾島の山は新高山(ニイタカヤマ、玉山(ユイシャン))だけではない。1925年の『理科年表』には、富士山より高い山が5座掲載されている。ただし、5番目にあげられていた南湖大山は、3797mとあるが、現在の測量では3742mなので、富士をしのぐのは、じっさいには4座である。

南湖大山が事実として大幅に低くなったわけではないだろうから、測量の精度の問題と思われる。100年足らず前に50m以上も違うのだ。今年の映画『キングコング・髑髏島の巨神』(ジョーダン・ヴォート=ロバーツ監督)で、衛星での観測が仔細になる前の1970年代前半、南太平洋に詳細がわからない怪獣の島があるということにして、物語的なリアリティーに工夫をこらしていたり、1950年代の手塚治虫さんの『ジャングル大帝』に、ムーン山という位置も高さも不明の山がでてきたことなどを連想させる。

ニイタカヤマといえば、ということで、話がさらにずれていくが、正岡子規に次のような歌がある。台湾占領直後の時代に詠まれたものだ。
足たたば新高山の山もとにいほり結びてバナナ植ゑましを

コロニアリズム(植民地主義)の匂いもするが、病床に伏せることになった無念さとともに、子規の高い山好きが見てとれる歌である。「足たたば」で始まる歌は連作で、ヒマラヤや富士山もよまれている。
足たたば不尽の高嶺のいただきをいかづちなして踏み鳴らさましを

でもね。子規さん、富士山頂は寒いぞ。『理科年表』によると、気温の年平均(1981年-2010年)は、-6.2度だ。ただし、統計開始から2016年までの富士山の気温の最低記録(統計開始1932年)は、1981年2月27日の-38.0度だが、旭川は1902年1月25日に、これを下まわる-41.0度を記録している。青森で陸軍の八甲田山遭難が起きた年である。

なお、最高最低気温では、那覇の最低記録が4.9度(1918年)と零下になっていないのは、さもありなんだが、最高が35.6度(2001年)というのは意外である。

で、富士山だが、子規には、富士山の歌もたくさんあって、二十歳をすこし過ぎた頃には、「なんだそれ!」という歌もつくっている。一二を争う「なんだそれ富士山歌」が次だ。
ヒマラヤがやつてきたとまけぬなり敵にうしろを見せぬふじ山

子規23歳(1890年)頃のもので、漱石に馬鹿ダナァと言われそうだ。漱石は、『三四郎』で廣田先生に「あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。」と言わせたり、講演『現代日本の開化』(1911)で、「外国人に対しておれの国には富士山があるというような馬鹿」と言っている。一高(予備門)の同級の友人で、富士山大好きの子規を思い出して、からかっていたのかもしれない。「一二を争う」もうひとつの子規の馬鹿富士山歌は次だ。
萬国の愽覽會にもち出せば一當賞を取らん不尽山

馬鹿すぎて笑ってしまう。「ヒマラヤ」は、富士山の八方秀麗、つまり幾何学的対称性を「うしろがない」とよんだ歌と考えることもできるが、「萬国の愽覽會」は子供の感想である。

子規には、病床に伏したあとの、「われは」で結ばれる連作もあって、そこでも富士がよまれている。次の歌は切ない。
富士を踏みて帰りし人の物語聞きつつ細き足さするわれは

富士山と明治人に関しては、最近みつけたほかの話もあるのだが、「こんな文章を書いてないで、やることやれ」という声が聞こえてきそうだ。長くなりすぎて、読んでいるひともほとんどいない気がしてきたので、それはまたの機会に。