今年も3週間が過ぎた2017/01/25 23:29

今年も3週間過ぎてしまった。
以下、本を読んだり映画を観たりなどしかしていないようだが、そんなことはない。
と言いたいのだが、そんなものかもしれない。

●寒中
雪華
何日か前、窓際に落ちた雪が見事な六華だった。大きさは2mmぐらいで、写真は、スマートフォンのカメラで撮ったものである。

自転車禁止
今年の野辺山の最低気温は、いまのところ、今朝(1月25日)5時過ぎのマイナス20.1℃である。

●7777、777
先日、うちを訪問したひとの車のナンバーが777だった。その数日後、コンビニエンスストアの駐車場で、まったくちがう車で、7777と777が並んでいるのを見た。だから、どうということはないけれど。

著者の第三歌集。『トレミーの四十八色』と題された、プトレマイオスの48星座をモチーフにして、結句を色でまとめた連作も収録されているが、石垣島に移住し、結婚し、子供が生まれるという著者の身辺を反映した歌が、私的経験の掛け替えの無さというか、一回性の緊迫感を生んでいて、ひきこまれる。第一歌集の印象とずいぶん違う。

折鶴が出てくる歌があった。この歌には、もののかたちのとらえかたの面白さ(第一歌集でわたしが好きになったところ)と、上に述べた特徴の双方が含まれている。

ベビーカーは折り鶴に似て児を拐ひとぶやもしれず枷鎖購ひにゆく

枷鎖は、囚人につける大きい鉄球のようなイメージだ。乳母車がふわふわと飛んで、赤子はにこにこ、親はパニック、あるいは呆然。

もののかたちのとらえかたの面白さでは、以下の歌が好きだ。

ヴィオロンのG線上を移動する点P として指ひかりゐつ

4本の弦のうちG線だけで弾く『G線上のアリア』は、弦から弦の移動がない分、音が連続的に変化する。1本の弦は連続体で、その並びは並行宇宙だ。

『直感幾何学』(D.ヒルベルト、 S.コーン=フォッセン著、 芹沢正三訳)
『朝倉数学事典』の「線織面」の項の参考文献にあがっているので知った。数学が専門ではないとはいえ、幾何学ファンとして、この本を知らなかったのは不覚だった。あのヒルベルトを共著者にする図版豊富な本である。しかも、独日翻訳されているので、読むことができる。ありがたい。コクセターの『幾何学入門』と並んで、幾何学ファンの必携書なのではないか。ちくま学芸文庫Math & Scienceのラインナップにも加えてほしい。

『数値計算の常識』(伊東正夫、藤野和建)
いまさらなのだが、仕事で遭遇する問題を確認したいと思って買い、ぱらぱら読んで、うんうんと頷いている。

『数学的な宇宙』(マックス・テグマーク著 谷本真幸訳)
昨年の暮れに、『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト著 寺町朋子訳)を読んでいたのだが、同様のテーマの本として、最近読みおわったこちらのほうが、わたしには面白かった。最初のほうの数章は、現代宇宙論の啓蒙書としてわかりやすく、頭が整理されてうれしい。

題名に反して、数式はほとんどでてこない。扱われる並行宇宙は、「ほんものの無限」を想定しないと成り立ちそうもなく、そこが最大の難点なのではないかと読みすすんでいくと、最後のほうに無限のやっかいさの話がちゃんとでてきた。話としては、要するに、究極のプラトニズムで、バリントン・J・ベイリーのSFのようでもある。ダグラス・アダムスの『銀河ヒッチハイクガイド』への言及が多いのもうれしい。

些細なことというか、余計な話であるが、図版のイラストはもっとうまいひとが描けば、より名著になったのになあ、と思った。プレゼンテーションのスライドによくでてくるような、顔のマークとか、線と丸で書いたひとのかたちとかは、なんか安っぽく見えてしまう。

『侏儒の言葉』(芥川龍之介)
ひさしぶりに手に取ったら、子規の「真砂なす数なき星のその中に吾に向ひて光る星あり」が引用されていることに気がついた。すこし前に野暮なことを考えた歌である。わたしがこの歌に最初に触れたのも『侏儒の言葉』だったということになるのだが、覚えていなかった。そもそも、同書中には、「詩人」とあるだけで、子規の名がでてこない。芥川さん、ひどい。

「天文学者の説によれば、ヘラクレス星群を発した光は我我の地球へ達するのに三万六千年を要するそうである。が、ヘラクレス星群と雖も、永久に輝いていることは出来ない。」という文章もでてくる。ヘラクレス星群というのはなんぞ。たぶん、ヘルクレス座にある球状星団M13かM92のことだろう。ともに、天の川銀河系内の恒星の集団である。距離は、最新の値で、それぞれ、2.51万光年、2.67万光年(理科年表2017)で、上の記述とオーダーも合っている。

上の文章は、「...永久に輝いていることは出来ない。何時か一度は冷灰のように、美しい光を失ってしまう。のみならず死は何処へ行っても常に生を孕んでいる。光を失ったヘラクレス星群も無辺の天をさまよう内に、都合の好い機会を得さえすれば、一団の星雲と変化するであろう。」と続くが、これが、どこから得た知識なのかは謎である。現在の知識では、M13、M92などの球状星団は、100億年以上の年齢があって、銀河形成の初期からあるものとされる。銀河の円盤部より古い。そもそも、銀河系内の星団が別の銀河になるようなシナリオはまずないだろうし、現代から見ると、いろいろと変な話なのだが、芥川が「星群」と星雲を使い分けているのは興味深い。芥川の頭の中に、「島宇宙」というイメージがあり、その意味で星雲という言葉を使った可能性があるからだ。

『侏儒の言葉』が書かれたのは1923年から、彼が物故する1927年までだ。ちょうどこのころ、天文学史的に、ちょっととしたコペルニクス的転回があった。アンドロメダなどの「渦巻き星雲」は、はたして、銀河系内にあるのか、銀河系と同列の「島宇宙」であるのかという論争の決着である。島宇宙説自体は、哲学者カントの主張など、より以前からあったわけだが、科学的にひとまず決着がついて「宇宙が広くなった」のは、1923年のハッブルの観測と翌年の論文によってである。

まあ、細部の知識を更新したところで、芥川の感慨は変わらなかっただろう。芥川の話は、よくある「宇宙の広大さに比べればひとの一生はちっぽけ」というものではなく、ひとの一生も星の一生も似たようなもので、流転の中にある、という話である。しかし、流転するので退屈しないというのではなく、「星も我我のように流転を閲すると云うことは -- 兎に角退屈でないことはあるまい。」と結ばれるのだ。最後の二重否定は、ややわかりにくいが、似たようなことの繰り返しで退屈である、ということであろう。そもそもここの話は、「太陽の下に新しきことなしとは古人の道破した言葉である。しかし新しいことのないのは独り太陽の下ばかりではない。」で始まっている。

どんなに広く、永い時間を経ている宇宙も、代わり映えしないよね、という、ニーチェの永劫回帰みたいな話である。前掲の『数学的な宇宙』の並行宇宙も、言ってみれば、「あり得ることはどこかであり得る」ということで、永劫回帰の考えかたに通じなくもない。しかし、それが実感としてぴんと来るかというと、そうでもない。前掲の『山椒魚が飛んだ日』ではないが、ひとは、やりなおしできない一回性にこころを震わせて生きる感覚を持っている。錯覚かもしれないけれど。

『三四郎』(夏目漱石)
有名なせりふ「滅びるね」をたしかめたくなって、読み始めて、最初から最後までしっかり読んでしまった。その日、仕事の予定が変わったので休みをとり、ぽっかりと時間が空いたのだが、手元に読みかけの本がなかったので手に取ったのである。妻から「あなたは、仕事と折り紙と本を読む以外のことはしないのよねえ」と呆れるように言われるままの行動である。主観的には、そうでもないのだけれど、やっぱり、そんなものかもしれない。

読んだはずなのに、細部はまったく覚えていなかった。寺田寅彦をモデル(の一部)にした野々宮博士の光の圧力の話のくだりの成り立ちは、中谷宇吉郎『「光線の圧力」の話』に詳しいが、『漱石が見た物理学』(小山慶太)という本にも解説があったはずと思って探してみると、以下のように書いてあった。以下、『三四郎』を引用している部分のさらなる引用である。

光線の圧力は半径の二乗に比例するが、引力の方は半径の三乗に比例するんだから、物が小さくなればなるほど引力の力が負けて、光線の圧力が強くなる。もし彗星の尾が非常に細かい小片(パーチクル)から出来ているとすれば、どうしても太陽とは反対の方へ吹き飛ばされる訳だ。

 こうして野々宮くんの長い演説は終わる(なお、蛇足ながら、彗星が尾を引くのは、光の圧力のためではなく、正しくは、太陽から放出される粒子の流れ[太陽風]を受けるからである)。

『漱石が見た物理学』はよい本だと思うのだけれど、あらためて読むと、カッコ内の小山さんの説明はすこしおかしい。

彗星の尾には、荷電粒子、ダスト(塵)、そして、中性ナトリウムの3種があって、一番目は太陽風のつくる磁場、あとのふたつは、主に光圧(放射圧)で尾を形成する、と、ものの本(『現代の天文学9 太陽系と惑星』など)に書いてある。野々宮博士は「小片」と言っているので、ダストを想定している。当時は、彗星の尾に種類があることも知られていなかっただろうし、観測しやすいのはダストテイルのようである。そのダストに働く力は、主に重力と光圧である。重力の係数である質量は、ダストの大きさ(長さ)の三乗に比例し、光圧の係数である面積は、大きさの二乗に比例するので、微細な塵は光圧の影響が大きくなる、というのが、野々宮博士の話す仮説の要点だ。きわめて理にかなっているし、ダストテイルの説明として、この話は正しい。明治の小説の、直接ストーリーとは関係のないところに、なんでこんな正しいことが書いてあるんだぐらいの正しさである。寅彦、漱石すごいな。

と、まあ、彗星についてちょっと詳しいのは、宇宙電波観測所で働いているという門前の小僧的なものだけれど、最近、まったく別のことで、彗星と流星について知識を確認しておきたい、ということがあったためでもある。

『三四郎』は、青春小説ということもあってなのか、読んでいて、森見登美彦さんの小説の直接の先祖みたいにも感じた。森見さんの文章が擬明治文的だからでもあるのだろう。

●『ローグ・ワン スターウォーズ・ストーリー』(ギャレス・エドワーズ監督)
ドンパチは食傷なんだけれど、と思いながら、シリーズずっと観てきたからなあ、ということで劇場に行って、たのしく観た。帝国軍のシャトルが折鶴にちょっと似ていた。これまでに出てきたシャトルと違って、真ん中の垂直翼の幅が細いところと、ボディーがステルス機風にカクカクしているところが、より折鶴らしい。案外ネット上に画像がないので描いてみた。こんな感じである。
帝国軍シャトル

しばらく読んでいなかった京極さんの小説をたて続けに読んだ。『書楼弔堂』シリーズのつくりは、山田風太郎さんの得意技の「じつはあのひとが!」である。そうした話には、王道の面白さがあって、「そうきたのね」と読者の衒気も刺激するのであった。
ちなみに、「衒気」というのは、「自分の学問や才能をひけらかしたがる気持ち」(大辞林)である。二十歳前後、「衒気溌剌!」という標語(?)を思いついて、日記に大書した記憶がある。アホだ。

『虚実妖怪百物語』は、実在人物に名前も知らないひとも多いのだけれど、たぶん、京極さんの描写のままなんだろうなあと、笑ってしまうのであった。レオ☆若葉くんの、コメディリリーフならぬ「馬鹿リリーフ」も癖になる。お話も、フレドリック・ブラウンの『発狂した宇宙』の妖怪版で、滅法たのしい。時事性というか批評性もあって、水木しげる的なものが隅々まで沁みこんでいる。

作中で榎木津平太郎が水木先生に会ったときの緊張の描写が、10数年前のわたしと同じ感じだったのも、いたく共感した。以下、日本折紙学会の機関紙『折紙探偵団 87号』(2004年)に書いた報告である。

 ニセ豆腐小僧、水木賞選考に立ち合う(前川淳)
 八月三日、妖怪折紙コンテスト水木賞選考のため、西川代表のお供をして水木プロを訪問してきました。当日のわたしは、一次専攻を通過した妖怪折紙作品八点のはいった行李箱を掲げ持ち、両手がふさがって扉も開けられない格好で、その様はさながら豆腐小僧のようでありました。豆腐小僧というのは、豆腐を乗せたお盆を持っているいるだけでなにをするでもないという、なんとも間が抜けた妖怪であります。水木しげる先生を尊敬するニセ豆腐小僧は緊張しておりました。じっさい、水木先生は妖怪然としており、コンテストの選考は即決でありました。作品とぐっとにらむや、順に作品を指し示し、「これとこれとこれだね」とひとこと。「どのあたりがよいでしょうか」と訊ねても、穏やかに「これとこれとこれがいいね」という返答でした。たぶん妖怪アンテナによる選考だったのでありましょう。
(大賞は山田勝久さんの「河童」)

上記の企画展のギャラリートークに行って(学芸員さんの名前メモし忘れた)、いろいろと面白い話を聞いた。たとえば、以下である。

祭祀遺跡として知られる金生遺跡のその名は、ほかの遺跡と同じように集落名からついたものだが、地名そのものが「金精さま」からきていると考えられる。つまり、遺物(石棒=石の陽物)が多く見つかるところだったことから、土地の名がついたと推測できる。開墾した土地の中から、そうした遺物が見つかるのは神秘に感じただろうし、それらを道祖神などに祀ったのだろう。面白いのは、いったん、ひとの居住が途切れている土地ということだ。つまり、信仰自体が受け継がれたのではなく、呪物の再利用があったというのが、この土地の歴史である。