読書日記的なあれこれ2016/12/26 00:20

瀬名秀明さんの折り紙青春小説『この青い空できみをつつもう』の記憶も新しいところで、近刊の折鶴小説をふたつ紹介しよう。昨年の『紙の動物園』(ケン・リュウ)といい、もろもろの映像作品といい、「折り紙 in 文芸」や「折り紙 in 映画」は来ているのか? などと。たまたまだろうけれど。

鏑木蓮さんの『黒い鶴』は、デビュー10周年記念短編集で、表題作は、12年前の幻のデビュー作とのことである。アイデアのてんこ盛りに意気込みを感じる一作だった。鏑木さんは『思い出探偵』でも折鶴を小道具に使用していた。

現役医師でもある浅ノ宮遼さんの短編集・『片翼の折鶴』の表題作は、意識不明となった女性のかたわらにあった翼がちぎれた折鶴の意味は?という話である。医療ものに「日常の謎」(ミステリ用語)というのは変かもしれないが、そんな感じの4編である。まあ、犯罪より病気のほうが、日常であるのは間違いがない。著者は、表題を「カタヨク」ではなく「ヘンヨク」と読ませている。また、「折鶴」のローマ字表記はoriduzuとなっていた。これに関連しては、先日、『千羽鶴折形』の研究をしているひとの集まりがあり、似たことが話題になった。『千羽鶴折形』を海外に紹介するとき、se[m n]ba[z d ts]uruのどの表記にするかということである。た行の濁音はDにすべしという話もあるが、かならずしもそうばかりでもないので、難しいのである。

という感じに、例によってだが、「忙しいときに読書」現象に陥っている。えい、ついでだ。この一ヶ月ぐらいに読んだ何冊かについて、書きたくなったので、由無し言を記そう。

まずは、松村由利子さんの『短歌を詠む科学者たち』。松村さんに、『31文字のなかの科学』『与謝野晶子』という著書があり、前者のみならず、後者の中にも科学と関連づけた内容があることを知り、せんだってこのブログに晶子の『颱風』の話を書いたので、シンクロニシティの感覚もあり、これも入手して読んだ。残念ながら同書の中に『颱風』に関する言及はなかった。

『短歌を詠む科学者たち』で取り上げられた科学者はバラエティーに富んでいて、懐石料理に招待された感じだった。ただ、斉藤茂吉の負の側面(戦争詠など)の記述がないことなどが、妙に気になってしまった。一冊の本になにもかも書くことはできないので、ないものねだりなのだが、読んでいて、なぜか頭の中に強迫的に浮かぶ「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」(アドルノ)という言葉に呪縛された感じになった。同様の思いは、冒頭の湯川さんに関する記述から感じたものなのだが、これはたぶんかなり特殊な感想である。

『短歌を詠む...』の第1章は湯川さんである。そして、『詩と科学 -子供たちのために-』という湯川さんのエッセイにある「詩と科学は遠いようで近い。近いようで遠い。」という言葉が、書物全体の基調になっている、と読める。高野文子さんの『ドミトリーともきんす』にも出てきたこのエッセイは、名編で、ポオやキーツという詩人からの科学に対するアンチテーゼを、ドーキンス(『虹の解体』の中でキーツを批判している)よりも慎重に止揚した言葉として読むことができる。しかし、わたしには屈折がある。

湯川秀樹博士や朝永振一郎博士は偶像だ。とりわけ日本で物理を学んだ者にはそうで、物理の業績のみならず、人格や平和運動への姿勢、文章の気品などにおいて、仰ぎ見る存在である。しかし、批判するひとも当然いる。たとえば、唐木順三さんの『「科学者の社会的責任」についての覚え書』がそれだ。わたしはこれを、まさに物理科の学生だったときに読んで、すくなからぬ衝撃を受けた。この本の中で、唐木さんは、朝永さんと対比させて、湯川さんを激烈に非難している。

その論旨をきわめておおざっぱに要約すると、「科学者は、科学そのものが内包する原罪性や危険性を強く自覚すべきだが、湯川博士にはそれが欠けている」といったものだ。かなり一方的な論難で、いまより純真だったわたしでも言葉通りには受けいれなかったが、ある種のトゲとして刺さった。たぶんわたしはこのとき、ひとを尊敬することと偶像化することは違うということを学んだ。

わたしは、湯川さんがそうだったとは思ってないが、原爆の効果的な使用法を示したフォン・ノイマンや、水爆の父・テラーのように、天才というものが、無邪気に虚無を抱えることがある、とは思っている。話が単純でないのは、彼らがわかりやすい悪人や阿呆ではなく、美と真の探求者で、その才能が眩いばかりに輝いていたひとたちだったことにある。これは恐ろしい話で、恐ろしいがゆえのリアリティーがある。思うに、科学の美しさの言挙げの中には、世界の終わりのような極端なものを見たいという欲望に通底するものがあるのではないか。そうしたことを考えるとき、科学は価値中立であるという「弁解」がうわすべりした言葉に思えるのもたしかだ。

『短歌を詠む科学者たち』にも、そういう科学の非倫理性、没倫理性を詠んだ歌はでてくる。たとえば、次のような、一種露悪的な歌だ。
「科学者も科学も人をほろぼさず十九世紀をわが嘲笑す」(坂井修一)
というふうに、科学者の社会的責任の問題がこころの片隅でもやもやしていたところ、近刊に『ヒトラーと物理学者たち』(フィリップ・ボール著、 池内了、小畑史哉訳)という本があったので、これも手に取った。著者が、『かたち』シリーズのフィリップ・ボール氏だったのが意外だった。『かたち』シリーズの過不足ない記述もすばらしかったが、調査の行き届いた本書の内容にも感心した。本書の「主要登場人物」である、プランク、ハイゼンベルグ、デバイには、まだ、苦悩や葛藤があるが、レーナルトやシュタルクの道化ぶりには呆れた。後世から見た評価ではあるが、それは滑稽ですらあった。しかし、彼らとて「偉い」学者だったのだ。こういうのを読むと、自分が偉いひとでなくてよかったなあ、という小市民的感想も浮かぶ。しかし、平凡な者でも、いつなんどき自分が加害者になるのかわからないのが、現代社会でもある。以下は、『ヒトラーと物理学者たち』からの引用の引用で、科学史家ヨーゼフ・ハーベラーの言葉である。素朴にも聞こえる言葉だが、正鵠を射ていると思う。
真の問題は、レーナルトやシュタルクのような科学の訓練を受けた人たちが、いかにして狂信的な国家社会主義者(引用者注:ナチスのこと)となり得たのか、ということだ。ノーベル賞受賞者があのように染まりうるのならば、科学の訓練や実践によって、行き過ぎた非論理的で、私的で、経済的、社会的、政治的な行動を、どのようにして防ぐことができるのだろうか? 
以下も引用されていたもので、ちょっとわかりにくい訳(あるいは、原文も?)だが、直球で痛いところをついてくる。ヤスパースの言葉である。
私たちは、オッペンハイマーのような科学者から風変わりな言葉を耳にする。・・・彼は「美」について語る。すなわち美を、遠くにある奇妙でなじみのない場所や、あるいは広大に開かれた風の強い世界において存在し続ける道の中に見出す、という人間の能力について語る。(略)そうした文章のなかに、洗練された耽美主義への逃避、(略)惰眠性のある言葉づかいへの逃避しか見出すことはできない。

科学者が詩をつくることは、科学にも詩があるというより、もっと単純に、逃げ場であることも多いだろう。水爆の父・テラーのピアノのようなもの、心理学でいうところの補償作用である。しかし、逃げ込み場所であったはずのものが、精神を削るようになることもあるのが、またややこしい。そういう点では、いわゆる余技を完全に超えているひとの話が興味深い。たとえば、『短歌を詠む科学者たち』中の、永田和宏さんの以下の話である。
インタビューなどでどうして二つを両立しているのか訊ねられると「どちらにも発見の喜びがある」などと答えていたものの、自分にそう信じ込ませたかったというのが本当のところで、実際には納得していなかった。
 しかし、あるとき不意に「サイエンスと文学はまったく違ったものなのだ」という当たり前のことに気づいた。「二つは何の関係もなく、二つのことを一人の人間が生涯をかけてやることに何の必然もない」と思った瞬間、科学と短歌を「同じ重さでやってきたというスタンスと、その時間の累積」が、初めて自分の中でかけがえのないものであったと思えた。
この話には、個人的にも共感した。スケールはちいさいが、わたしにも似たような感覚があるためだ。...と、極私的な話となる。

この1ヶ月も、なんやかんや折り紙の活動が多い。本来怠け者なのに、ぼんやりとした週末がほとんどない。もろもろの会議のほか、先月末は折紙探偵団・静岡コンベンション、先週は、第21回折り紙の科学・数学・教育研究集会と『千羽鶴折形』に関する座談会だった。そして、先月の第2週は、天文台の仕事を休んで、「数学的モデリングと解析の国際会議2016 - 折り紙を基にしたモデリングと解析」という会に出席していた。こちらは科学や工学の研究会だが、ウィークデイだったので、仕事を休んで行った。数学を使うといっても、天文と折り紙では、頭を切り替えるし、こういう研究会で、天文台のソフトウェアエンジニアですと言っても話が発展することはあまりないので、折り紙アーティストなどと名乗ることになる。まさに、「二つは何の関係もなく、二つのことを一人の人間が生涯をかけてやることに何の必然もない」のである。

研究会そのものは、幅広い研究者に会えるのと、自分のまとめの機会、若いひとの成果に触れることができるのでたのしい。文化としても研究としても、マージナル(周辺的)なものであった折り紙が、偉くなったよなあと感慨も深い。しかし、自分が偉くなったわけではないので、ふわふわとした奇妙な立ち位置にいるなあ、とも思うのである。

話が妙なほうに流れてしまったが、読書日記的なものに戻ると、前にこのブログにも書いた(1 2,3)竹本健治さんの『涙香迷宮』が、年末の各種ミステリベスト10で上位(1位も!)だったのには驚いた。万人受けとは思えないので、心配である。「なんで、あんたが心配するのか」と、いうことではあるけれど。

そして、いまさっき読み終わった、森見登美彦さんの『夜行』には、以下の文章があった。
「これらは『夜行』と呼ばれる連作で四十八作あります。」
天鵞絨(ビロード)のような黒の背景に白い濃淡だけで描きだされた風景は、永遠に続く夜を思わせた。いずれの作品にも一人の女性が描かれている。目も口もなく、滑らかな白いマネキンのような顔を傾けている女性たち。「尾道」「伊勢」「野辺山」「奈良」「会津」「奥飛騨」「松本」「長崎」「青森」「天竜峡」・・・・一つ一つの作品を見ていくと、同じ一つの夜がどこまでも広がっているという不思議な感覚にとらわれた。
フィクションの中に野辺山という地名がでてくることはなくはなないけれど、多くはない。『夜行』の中でじっさいに語られるのは、尾道、奥飛騨、津軽、天竜峡、鞍馬で、野辺山は語られぬエピソードだったが、夜の闇の物語は似合う。星空は、まさに降るごとくだ。最近、闇に隠れた事件もあったのは嫌な感じだけれど。なお、作中に描写されている版画は、長谷川潔さんのイメージ(氏は静物が多く、風景画はすくないが)だが、表紙絵はなぜかいまどきのアニメーションぽい絵であった。

というわけで、明日から野辺山か。