『和紙』(東野辺薫)2015/12/26 20:59

東北本線安達駅
二本松市在住の五輪教一さんから、東北本線安達駅(福島県二本松市)の写真を送っていただいた。安達駅については、『陸奥の安達の原の駅前に折鶴あると聞くはまことか』と題して『折紙探偵団 106号』(2007)にエッセイを書いたことがあるのだが、折鶴の電飾が灯ったところは見ることができていない。「ありがとう」の文字がある意味は、安達駅が改築中で、大正6年(1917年)建築の駅舎が来年までだからということである。

そもそも、安達駅になぜ折鶴のモニュメントがあるのかというと、千年の歴史を持つ和紙生産地が近くにあるからだ。このことに、同地出身の高村智恵子が、入院中に何羽も何羽も折鶴を折ったというエピソードも加わって、モニュメントやマンホールの蓋に折鶴の意匠が使われているのだと思われる。

今回、五輪さんから、その紙漉きを題材にして、安達駅も描かれる『和紙』(東野辺薫)という小説があることも教えていただた。昭和18年(1943年)の芥川賞受賞作で、川端康成ら、審査員の満場一致だったという。

それを入手して読んだ。できれば、東野辺薫(1902-1962)さんの著作集を読みたかったのだが、同作が収録された、昨年3月10日に出版の『福島の文学 11人の作家』(宍戸芳夫編)を手にとった。

一枚一枚漉いてゆくうちに、やがて我知らずいつもの漉き三昧の境に入ってしまって、ふと足音が漉屋の前にとまった時も、友太の心は淵のように静かであった。
「あした行くってのに漉いてんの?」
「んだから漉いてるで。」

文中の「行く」は出征の意味である。(新仮名遣いとなっているのは引用元に基づく)

これは、心に染みる小説だった。紙漉き作業の細部が、小説の中にまさに漉きこまれ、時代に翻弄されるひとたちの姿が静謐に描写されている。戦時下に評価されたことを思うと正直意外だったのだが、戦争の不条理も仄めかされている。

静かな筆致のため、自然の厳しい東北の山間の小さな村が、世界から切り離された桃源郷のようにも、涅槃の世界のようにも思えてくる。

登場人物の女性の何人かが、一人称として「おら」、そして「おれ」を使っているのも興味深かかった。亡くなった義母が磐城地方の出身なので、妻に訊いてみると、田舎の親戚と話すときは、たしかに「オレ」になっていたという。上京前は小学校の先生をしていたひとなので、標準語への矯正圧力もあったと思うが、それでもそうだったのだ。

手持ちの和紙関連文献を調べて、興味深いこともわかった。この地方(上川崎)の製紙は、たしかに約千年前に土地に根付いたようで、幕藩時代も盛んだった。『源氏物語』や『枕草子』で言及されている、いわゆる「みちのく紙」の発祥地のひとつとも推定されている。しかし、最も栄えたのは、『和紙』に描かれた時代を含む大正から昭和の時期なのである。最盛期の昭和初期、500世帯の半分が製紙に従事していた。ところが、昭和の末には、ほとんど絶滅と言えるまでに衰退する。(参考文献:『和紙の里』林正巳 1986)いま現在、数軒が伝統を継いでいるのは、二本松和紙伝承館という施設も造っての努力の結果である。

つまりこういうことだ。この地方の製紙は、多くの紙漉きの里でそうであったように、そして、考えてみれば当たり前なのだが、伝統工芸という言葉から想像されるものではなく、時代に合った産業だったのだ。その産業としての紙漉きは、1930年ごろをピークとして状況が変わった。同じころ、柳宗悦らによって、伝統産業の中に美を見出す民芸運動が起き、和紙にも焦点があてられているが、そうした視線の向けられかたは、一面において、産業としての衰退の指標でもある。そのような状況で、上川崎和紙は、山梨県市川大門や愛媛県川之江のように機械製紙に移行はしなかった。できなかった。そして、養蚕と同じように急速に衰退したのである。民芸運動の賛同者のひとりである寿岳文章・しづ夫妻は、『紙漉村旅日記』(1943、1986復刻)で、上川崎に近い山舟生(やまふにゅう)和紙を以下のように述べている。

こんなに質朴で美しい村では、醜い紙の漉かれやうがない。(略)山舟生のやうな村では、悪い紙を漉かうと云う意識のないのは勿論だが、良い紙を漉くことに専念していゐるのでもない。先祖代々伝へてきた技術を、忠実に守つてゐるだけである。明治四十二年に土佐から教師を招いて改良漉をやつてみたが、紙が悪くなったのでいつの間にか古法に帰つた。

いっぽう、上川崎和紙については以下のように書いている。

明治十九年、下川崎の野地勝吉が東京へ行き、製紙原料の研究を積み、苛性曹達、晒粉、塩酸加里などの化学薬品を購入し、井上廉五郎と云ふ技術家も雇ひ、改良漉を始めたので、本村も明治二十二年野地勝吉を師として大判製紙の伝習を受けたが、成績思はしからず、更に土佐から土井伊太郎を聘し、爾来年と共に重ねた苦心が漸く実を結び、色艶も佳く価格低廉なので販路が広がり、県内各地は勿論、東京、茨城、栃木、群馬、長野、新潟、宮城、山形、秋田の各府県に及んだ。殊に明治三十五年と同三十八年の大凶作にも、製紙に従事してゐたればこそ上川崎は無事に切り抜けることができ、副業としての紙漉きの有難さを痛感している。(略)私たちが想像してゐたほど、又他村で聞かされてゐたほど、質は悪くなかった。役場で戸籍簿等に使つている延紙なども、寧ろ推奨に値するであらう。

民芸の視点では山舟生に肩入れしている感じだが、上川崎和紙が、時代に合わせて改良されていたこともわかる。それゆえに、他の産地から、本式でない廉い紙と見られていたというふうでもある。時代への適応の奮闘は、前出の『和紙の里』によると、以下である。

昭和二四年(一九四九年)、上川崎に福島県和紙工芸指導所が設立され、品質改良、機械化の技術指導などがおこなわれたが、衰勢をとどめることはできなかった。そして今日(昭和六一年)、この上川崎地区には四戸が副業として、一二月から三月ごろまで、注文により生産するにすぎない。

多くの和紙産地は時代のままに衰滅したが、上川崎は、時代に追いつこうとしてもがいたのだが、時代に追い越されたのだ。(ちなみに、上述の山舟生和紙は一度途完全に絶えてしまったようだが、20年前から文化の継承として、有志によって漉かれているという)

しかし、ひとの晩年がただ寂しいものでないように、衰えていったものの中に光が宿ることがある。あまりに急速に喪われたために、残骸しか残らないものもあるが、手漉きの和紙は、多品種少量生産が見直される時代において、踏みとどまる、というか、復活の力を持った文化だろう。

思えば、安達や二本松周辺でかつて盛んで、ほとんど滅びてしまったものには和算もある。同地は和算が盛んな土地だった。紙と(遊戯的な)数学。わたしにとっての桃源郷的な組み合わせである。

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