『数學表裏辨』2014/05/20 22:26

算学者・渡邉一の墓碑
先々週、折り紙に関係する資料を求めて、山形と福島を訪ね、和算の文献や物件を調べてきた。おおいに収穫があり、思いがけない出会いで、算学者の子孫のひとにも会ってきた。

折り鶴を初めて数学の問題として扱ったひと(たぶん)である渡邉一(渡邉東嶽)の墓参りもした。すこし荒れていたのは寂しかったが、聞き及んでいた「東嶽院不朽数学居士」という戒名が刻まれた墓碑をじっさいに見ることができた。ちなみに、妻の戒名は「正等院眞浄妙學大姉」であった。

直接折り紙には関係したものではないが、渡邉一の『数學表裏辨』(文化九年十月:1812年、山形大学小白川図書館蔵)という書物にあった文章もなかなか味わい深かった。200年前の近代化以前のひとの言葉という感じはあまりしない。その一部を、以下に紹介する(拙訳)。
天下国家を治めることを旨とする学問の道ですら、学ぶ者の志によってその身の破滅をまねく恐れがある。我が数学の道もそうである。奇をてらって技巧にはしり、ひとに勝つことを求め、名誉を得ることに傾くと、自分を失い、人を損なうことばかりが多くなる。ひたむきに数の自然の変化のさまざまを見て、混沌のあるがままをうけとめ、天地万物の自然の有り様を楽しめば、身を修めて徳も得て、天下国家を平安に治める奥深いものにも達することができる。
(略)
わたしは、福島の山中、猿や鹿の啼き声の響く安達太良連峰の鬼面山の山麓に、きこりや山賊とともに育ってきた者で、文学の道には明るくないが、この評論のついでに、弟子の迷いを解くために、下手な文章を繰り返してこれを記している。学のある人たちは、これを見て笑わないでほしい。いっぽう、この論に深くなじむのは、世にいう理屈者におちいっているかもしれないことに注意してほしい。聖人君子の述べたことも、理解のしかたによっては、後世の害になることもある。ひたむきに、世の理屈にとらわれずに、天地自然の真理に徹して、深淵のそのまた深みを打ち破って、混沌、未分、虚無のあるがままを受けとめて、ただそのままの数をじかに味わって知るべきなのである。ただ伝え聞いて学び知るのは実のある智ではない。以上のようなことなので、このことをよくよく思いつとめて守り、知ることに励むほかはないのだ。

原文(一部表記は異なる):
天下國下ヲ治ル事ヲ宗トスル学文ノ道スラ学ブ人ノ志シニ因テ其身ヲ破ル恐シテモ惶レベキ事ナラスヤ我數學道も爾リ奇巧ヲ設テ人ニ勝チ求名趨利事ヲ本トスルトキハ其身ヲ失ヒ人ヲ賊フコト而已多カルベシ只己ヲ勤メテ數ノ自然ノ變化ヲ尽シテ混沌ノ自在ヲ自得シ天地万物ノ造化ト共ニ樂シムトキハ脩其身明徳ヲ明ラカニシテ天下國下を平ラカニ治ムルノ玄妙ニモ至レル也
(略)
予ハ當國信夫の山中猿ラ鹿ノ声喧ヒスキ鬼面山麓ニ樵夫山賊ト共ニ生長シ文学ノ道ハ一文不通ナレ共此ノ評論ノ序テニ門人小子ノ惑ヲ解シ為ニ重言不文ヲ厭ハズ是ヲ記ス大方ノ君子コレヲ見テ笑フ事ナカレ亦云此評論ニ深ク泥ムトキハカヘツテ世ニ云利窟者ニ落チ入ルベシ聖人君子ノ曰フ事モ人々ノ解シ方ニ依リテ後世ノ害トモナル事有ラヤ一向世ノ利窟ニ拘ラズ乾坤自然ノ眞理ニ徹ツシ玄ノ又玄ヲ打破シテ混沌未分虚無ノ自在ヲ自得シ只其侭ノ直數ヲ味ワヒ知ルベシ夫傳テ聞キ學ンテ知ルハ實ノ智ニアラズ其理ハ茲ニ通スベク共其事ハ能々信心堅固ニ勤メテ知ルニシカラザヤ
読んでいて、「数学って何の役にたつの」って昔も言われたんだろうなあ、などと思う。「數ノ自然の變化ヲ尽シテ混沌ノ自在ヲ自得シ天地万物ノ造化ト共ニ樂シム」の「樂シム」がよい。「深ク泥(ナジ)ムトキハカヘツテ世ニ云利窟者ニ落チ入ルベシ」と自分を対象化しているのもよい。「文学ノ道ハ一文不通ナレドモ」なんて言っているけれど、俳句もたしなむひとだったらしい。

いっぽうで、渡邉一は、山津波のあとの温泉の引き湯設計をするなど、実地の仕事もしっかりしていたひとである。『炮器製作算法』という砲のつくりかたの書籍も書いている。彼の曾孫に、戊辰戦争の悲劇として有名な、二本松少年隊隊長の木村銃太郎がいる。渡邉は、こういった数学の「実利的」側面を「当用」と称し、「表」としている。それにたいして、理と自然の探求は、数学の「裏」であるという。そして、その表裏が一体でなければならない旨を述べている。『数學表裏辨』という本の題名もここからきている。応用が表で基礎が裏というのは面白いが、じっさいのところ、彼は裏である理と自然の探求のほうが好きだったのではないだろうか。