月並、そして正岡子規について2012/09/12 23:16

俳句と折り紙は似てなくもない。ということで、以前、『第二芸術』のことを書いたけれど、その興味の延長で、千野帽子さんの『俳句いきなり入門』を読んだ。

俳句の面白さは、作者の内面云々ではなく、言語の相互作用にあり、外に開かれたものである、といった主題が、肝心なのは作句よりも句会だという実践のすすめを中心に書いてある。とても面白い。また、千野さんは、ポエム嫌いの旨を述べる。「ポエム」というのは、正岡子規のいう「月並調」とニアリーイコールの概念だろう。これもまた、内面の表現より言語の面白さを、ということからくるのだが、ポエム嫌いを単純に教条化するのは、それはそれであやうい。これは、自戒としてそう思う。ポエムを嫌うと、無邪気な正面突破の持つ破壊力への道をふさいでしまうというマイナスがまずありそうだが、それよりも、スノッブに陥りやすいことがあやうい。これは、半可通ほどあやうい。

月並を嫌うと月並の逆襲をうけるということでは、「お前は歌うな お前は赤ままの花やとんぼの羽を歌うな 風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな (以下略)」(中野重治『歌』)に関して、 <歌うなって言うことで、赤ままの花を甘ったるく歌っているよ>というようなことを花田清輝さんが書いていた(出典未確認)ことを思い出した。

そして、子規はこんなことを書いている。
自分の俳句が月並調に落ちては居ぬかと自分で疑はるるが何としてよきものかと問ふ人あり。答へていふ、月並調に落ちんとするならば月並調に落つるがよし、月並調を恐るるといふは善く月並調を知らぬ故なり、月並調は監獄の如く恐るべきものに非ず、一度その中に這入つて善くその内部を研究し而して後に娑婆に出でなば再陥る憂なかるべし、月並調を知らずして徒に月並調を恐るるものはいつの間にか月並調に陥り居る者少からず、(以下略)
『墨汁一滴』 『墨汁一滴』(青空文庫)

ナイーブ(未熟で甘い)とスノッブはじつはよく似ている。波長が大きく違う赤と紫が、心理的な色相環においては隣りになるようなものかもしれない。そして、どっちに面白いものがあるかというと、断然ナイーブのほうだろう。

えーと。俳句そのものではなく、それを参照して折り紙のことを考えていたはずなのに、なんだかよくわからなくなってきた。
「折り紙の場合、俳句における言語が幾何学に相当し、句会が折り図に相当する」などと続けようか、それはそれで、広がりがある話だろうと思うのだが、どうも面倒くさくなってしまった。俳句の論で折り紙を語るというのは、アナロジーだが、アナロジーというのは、語源的に言っても「論理じゃない(反ロゴス)」ということだ。それよりも、本棚からひきだした『墨汁一滴』。それに読みはまってしまった。

ところで、子規に「一つ落ちて二つ落たる椿哉」という句がある。
これは、まず一つ落ちて、つぎに二つ落ちて合計三つ落ちたともとれるが、そうではなく、1+1=2と考えたい。つまり、「一つ落ちて三つ落たる椿哉」「一つ落ちて四つ落たる椿哉」...「一つ落ちてn+1落たる椿哉」と続くのである。数学的帰納法である。椿の句といえば、漱石の句「落ちざまに虻を伏せたる椿かな」から、寺田寅彦が『空気中を落下する特殊な形の物体 -椿の花- の運動について』という論文を書いた話が有名だが、子規のこの句は、物理ではなく数学、「ペアノの自然数の公理」の俳句版なのである。なんてね。椿は、無限までは続かず、最後は「すべて落たる椿哉」で終わってしまうしね。

ということで、句から数学を感じたのだが、子規は、東京大学の予備門のときに数学で落第したということが、『墨汁一滴』に書いてある。彼を落第させたのは隈本有尚というひとである。このひとは『坊ちゃん』の山嵐のモデルとも推定され、晩年は、ルドルフ・シュタイナーの神秘学や占星術にはまった、かなり変わった人物だったようだ。
しかし余の最も困つたのは英語の科でなくて数学の科であつた。この時数学の先生は隈本有尚先生であつて数学の時間には英語より外の語は使はれぬといふ制規であつた。数学の説明を英語でやる位の事は格別むつかしい事でもないのであるが余にはそれが非常にむつかしい。つまり数学と英語と二つの敵を一時に引き受けたからたまらない、とうとう学年試験の結果幾何学の点が足らないで落第した。
(中略)
 余が落第したのは幾何学に落第したといふよりもむしろ英語に落第したといふ方が適当であらう。それは幾何学の初にあるコンヴアース、オツポジトなどといふ事を英語で言ふのが余には出来なんだのでそのほか二行三行のセンテンスは暗記する事も容易でなかつた位に英語が分らなかつた。落第してからは二度目の復習であるから初のやうにない、よほど分りやすい。コンヴアースやオツポジトを英語でしやべる位は無造作に出来るやうになつたが、惜しい事にはこの時の先生はもう隈本先生ではなく、日本語づくめの平凡な先生であつた。しかしこの落第のために幾何学の初歩が心に会得せられ、従つてこの幾何学の初歩に非常に趣味を感ずるやうになり、それにつづいては、数学は非常に下手でかつ無知識であるけれど試験さへなくば理論を聞くのも面白いであらうといふ考を今に持つて居る。これは隈本先生の御蔭かも知れない。
(『墨汁一滴』)
なんてところを読みながら、「数学は非常に下手でかつ無知識であるけれど、…理論を聞くのも面白い」といったこととか、英語がたいへんという話に、親近感を持つわたしなのであった。