マーティン・ガードナーの生涯を祝う会2010/10/22 01:20

マーティン・ガードナーの生涯を祝う会
 21日、G4G-CoM in Tokyo(マーティン・ガードナーの生涯を祝う会(東京会場))というイベントに参加した。(関連記事 朝日新聞
 今年5月に亡くなったガードナー氏の誕生日であるこの日に、世界各地でいっせいに、彼の生涯を祝う会(追悼ではなく)があったのだ。

 思えば、今年も、敬愛する先人や、愛読していた作家、友人が亡くなった。
マーティン・ガードナーさん、ベノワ・マンデルブロさん、森毅さん。ミステリ作家の北森鴻さん。「人は死なない」と断言したアーティスト・荒川修作さんも。知人では、オリガミアーティストのエリック・ジョアゼルさん。

 「生涯を祝う会」と書いて、「生涯」という言葉に、なぜ、「涯」という文字が使われているのかと気になった。「果て」ということなのだろうが、字の旁(つくり)が同じ「崖(ガケ)」を連想せざるをえない。地面が無くなって、奈落が広がる感じである。

 辞書を見ると、「涯」は、たしかに崖と同様の意味を持つ字なのだが、サンズイがあるように、水ぎわ、水辺という意味であることもわかった。
 頭の中の風景は、断崖絶壁から、波が寄せて返す海岸というものに変わった。そして、波に洗われる岬の映像に結びついている、ジョン・ダンの『誰が為に鐘は鳴る』を連想した。
誰も島ではない
それだけで充足するものではない
誰もが大陸のひとかけら
大地の一部だ
一塊の土くれが海に洗われれば
欧州大陸であれ狭くなってゆく
岬が失われるように
君の友や君自身の土地が失われるように

誰かの死は わたしをも削ってゆく
それは わたしが人類の一部だからだ
だから 訊くことなどない
あの弔いの鐘は誰のために鳴るのかと
それは君のため鳴っているのだから
(John Donne 『For Whom the Bell Tolls』として知られる『Meditation』(瞑想録)の一節  適当な訳:J.M.)

 この詩は、死を悼み畏れるものだが、逆に、荒川さんの「人は死なない」ことをうたったと言えなくもない。そう言えば、『死よ。奢るなかれ』もジョン・ダンだった。

 などと、いろんな連想で、死生観うんぬんも考えなくもなかったのだが、今回の会には、国内の遊戯数学のビッグネームが集まっており、純粋に発表を楽しんだ。会の世話役のひとり岩沢宏和さんが紹介していた、以下の言葉が象徴的だった。(だれの言葉だったか失念)
マーティン(ガードナー)は、多くの子供を数学者にし、多くの数学者を子供にした。
 わたしは、ティーンエージャーの頃、ガードナー氏を愛読していて、「折り紙設計」は、ガードナー氏の本で知ったソロモン・ゴロム氏のレプタイルなどからの刺激を受けて思いついたものとも言えるので、会ではその話をした。