丸石神その21ー夜啼石と首地蔵 ― 2009/02/12 00:09
『妖怪ウォーカー』(村上健司著)という本に、現在も遺るこの石の探訪記が掲載されていたのだが、そこに、小夜の中山の「さよ」は「塞(さい)」のことではないかとも言われる、との記述があったのだ。夜啼石は塞の神、つまり、道祖神だったということなのである。ほぼ山梨にしかないと言われる丸石道祖神の親戚が、こんなところにもあったということになる。これは見逃せない。しかも、この石は、安藤広重の『東海道五十三次』の『日坂』(写真上:部分)にも描かれるなど、世に聞こえた伝説の石なのである。丸石神界のスターである。じっさい、広重の版画をあらてめて見ると、丸石道祖神に見えてくる。丸石神の南限の調査で富士川みちを南下するという目標もあるし(文献では、旧富沢町を含む南部町にもあることがわかっている)、今度この夜啼石も見に行こうと強く決意したのであった。
小夜の中山の夜啼石では、その泣き声は非業の死をとげた母親のものということになっているが、それが、不幸な子供に関するものであるのは示唆的である。これは、山梨市水口にある「首地蔵」(写真下)にも繋がる話と言える。
山梨市水口の首地蔵。今日、山梨から東京に戻るさい、これを見てきたのである。丸石好きとしては、隣接する階段ピラミッド(?)の上に鎮座する丸石にも惹かれたのだが、インパクト満点なこの地蔵には、夜啼石に似た、次のようないわれがあるのだ。
この岩が土石流で落ちてきたときに、子供を守って、おみよという子守りの少女が下敷きなった。それ以来この岩の周辺で、子供がひどく夜泣きし、何かに怯えるようになった。その後、旅の僧が、石で首を掘り岩に乗せ供養をしたところ、子供たちの怯えはやんだ、とそんな話である
造形的には、諏訪にある万治の石仏にきわめて似て、どこかユーモラスでもある。万治の石仏は、万治三年(1660年)の年号が刻まれていることでこう呼ばれる石仏で、岡本太郎さんが「世界中歩いているがこんな面白いものは見たことがない」と絶賛したことで有名になったものだが、この首地蔵の造形センスもそれと同じものと言える。
ここで、造形センスなどという言葉を使ったが、信仰においても、怪談めいた因縁話は後付けの部分が大きく、単によいかたちの石、見過ごせないかたちの石ということのほうが大きいのでないだろうかと思っている。それともそれは、丸石神や石像にアートを見てしまう近代人の感覚なのであろうか。
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