丸石神その202009/01/31 12:00

丸石神ーその20
 昨年と同様、1月15日前後に各地の道祖神祭りを見て、その飾り付けの造形を「研究」したかったのだが、今年は時間を取ることができなかった。しかし、諸事の合間を縫って、丸石道祖神の探索は着々と続けている。どういうひとが興味を持つのか見当がつかない話題なのだが、その成果の一端を報告しよう。

 写真左上は、身延町粟島のものである。南部町や静岡県北部をまったく調べていないので、あくまで暫定だが、確認した中では最も南に位置する丸石神である。丸石と呼ぶには角張っているような気がしないでもないが、台座の石に「道祖神」と刻んであるので道祖神であるのは間違いがない。
 粟島のものより丸々しているのが、写真右上の、身延町八日市場(旧中富町)のものである。ところで、神さまを「もの」などと書いているが、これは不敬であろうか。そう言えば、神体の助数詞は柱(はしら)だが、丸石神を柱とするのは、どう考えても変である。この場合は「座」だろうか。
 ここでもうひとつ注目したいのは、火の見櫓と道祖神との関係である。写真の端にも火の見櫓が写っているが、体験的な法則として「道祖神・火の見櫓隣接の法則」なるものがある。道祖神を見つけたければ、まず火の見櫓の周辺を探せ、ということである。
 地方の集落に設置された火の見櫓は、昭和三十年代のものが多い。一方、道祖神には、「どんど」の飾り立てをする広場・道祖神場が必要である。つまり、火の見櫓を設置する土地として、日常的には使用していない道祖神場が適当だったということが考えられるわけである。さらに、多くの道祖神祭りでは火が使われる。同時に、集落の安全を守る道祖神は、火伏せの霊験も合わせ持つ場合が多いのではないかと考えられる。こうした繋がりが、道祖神と火の見櫓と隣接させたのではないだろうか。なお、道祖神場が、近代的な観点からはいわば遊休地であったために、ゴミ集積場となっているという、すこし悲しい例もある。

 「お供え系」の丸石神としては、韮崎市中田町の石祠の前のごろごろ(写真左下)が絵になる。祠が卵を産んだみたいだ。秘境と呼ばれる南巨摩郡早川町奈良田の、文字碑道祖神(左は「地神」右は「道祖神」と刻まれている)(写真右下)も、いかにも山里で大事にされてきたという風情が美しい。

 以上の丸石神は自然石であるが、最近見つけた北杜市須玉町若神子・諏訪神社境内のそれは、人工的なもので、みごとに丸い(写真中央)。真球度の高い丸石神はこれまでにも何例か見たが、これは群を抜いている。台座との接触面積も最小限で、なんだか天体模型のようだ。紙垂をつけるために鉢巻きされた縄も真球度を強調する役を果たしている。幾何アートである。台座には、正面に道祖神の文字、横に天保十一庚子の年号(西暦でいえば1840年)、そして、裏に高遠石工 北原善七の銘などがあり、削り磨いた丸石神が幕末のものであることを示す典型例にもなっている。江戸中期から後期に活躍した、高遠石工という技能集団があり、北信州の双体道祖神などに関わりが深いのは漏れ聞いていたが、丸石神にも関係しているのは意外だった。その意味でも貴重な物件である。