折り紙を携えて。2008/10/10 23:25

 梨木香歩さんのエッセイ・『ぐるりのこと』を読んでいたら、折り紙に関するエピソードに遭遇した。折り紙の話題を探して読書をしているわけではないのだが、最近、読む本の数冊に一冊の割合で折り紙が登場する感じがある。まあ、どこか「折り紙の匂い」のする本を探しているような気がしなくもない。
 その内容は、以下のようなもの。
 ポーランドに戒厳令が敷かれ、亡命者が続出していた80年代、梨木さんは、ベルリンから乗った列車で、着の身着のままで逃れてきたらしい、不安にふるえているかのような母子と同席になる。
列車の振動音だけが空しく続く。窓の外は雪に覆われた東独の大地。私はバッグから折り紙の束を取りだした。そしてゆっくりツルを折る。最初は何事か、とちらちら見ていた子どもたちも、できあがったツルを手渡されると、眼を輝かせる。母親の顔にも疲れた笑顔が浮かぶ。それから、目的地に着くまで、私は黙って延々折り紙を折り続けた。
 無力感の中で、淡いコミュケーションの役割を担った折り鶴、という描写だ。そして、同書中には、千羽鶴に対しての以下のような文もある。
始めてすぐに、黙々と単純作業を繰り返す、これは、ほとんど意識を違う次元に持って行く、メディテーションの一種のようなものなのだと感じた。
 千羽鶴に「独りよがりの押し付けがましさ」も感じていた梨木さんが、折り鶴を折る中で、じっさいに手を動かすことによるちいさな祈りのようなものを実感する、という文脈の一文である。
 一方わたしは、折り紙を折っているときに無為の境地になることはまずない。造形や色彩や幾何学、紙の物性といったものへの感受性、自己批評といった意識から逃れられない。たとえ何度も折った折り鶴のようなモデルの反復であっても、折る行為にはいったとき、「邪念」が抜き難く生まれる。紙を折ることが、意識の深い部分への潜行になる感覚は少なからず持っているが、「千羽鶴瞑想法」「千羽鶴禅」はわたしには不可能である。単純な反復による瞑想ということでは、突然妙なたとえに飛ぶが、山盛りになったサヤエンドウのスジを取るときの感覚が、これに近いのかもしれない…と、ずっと昔の子どものときの手伝いを思い出した。

 いずれにしても、梨木さんにとって、折り紙は、手作業の象徴として重要なもののようだ。文庫本に解説文を寄せている最相葉月さんもそれを感じとったようで、次のように書いている。
 生まれたとき、動物にもモノにも人にも、互いに隔たりはなかった。それぞれの時間のなかで、境界は取り付けられた。その境界を乗り越えるはたらきが、物語にはある。梨木さんは、その物語をつかむため今日も旅に出るのだろう。折り紙を携えて。


阪神タイガース、力尽く。水道橋のチームの大逆転というけれど、戦力を考えれば、タイガースがよく頑張ったのだ。じつに口惜しいけれど、1日3時間という阪神タイガースの応援から解放されて、ほっとしたようなところがなくもない。ポストシーズンは気楽に応援しよう。