丸石神その72007/11/07 23:25

 このブログにも書いたように、過日、丸石神からつげ義春さんの『無能のひと』を連想し、多摩川まで散歩の脚を伸ばした。一方、わたしの丸石神熱のルーツは石子順造さんにある。(丸石神について触れている石子さんの『キッチュ論 石子順造著作集1』(1986)という本は、折り紙の限界芸術(マージナルアート:周縁芸術)性を考えるということもあって読んだと記憶している。当時、笠原邦彦さんから「折り紙限界芸術説」を聞いた影響だろう)
 そして、世のことどもには味なつながりがあるもので、つげさんと石子さん、このふたりに関するエッセイをネット上で見つけた。『石子順造とつげ義春 椹木野衣著『戦争と万博』にふれて』(高野慎三氏)である。高野さんはいわば当事者として、石子さんからつげさんへの直接的な影響を否定、すくなくとも疑問に思っているのだが、詳細な事実関係をあえて横におくと、わたしの関心をつなぐ「補助線」がまた現れた思いがある。『戦争と万博』は、まだ読んでいないのだが、丸石神がひとつの梃子の支点になっているというか、この線は岡本太郎さんにまでつながっている、という内容だと推測する。
 なお、『石子順造とつげ義春…』中の以下の文が、石子さんとわたしの丸石神への視線の類似を思わせた。
石子は、山梨の丸石神にこだわりながらも、長野や群馬の道祖神や石像物にはいっさいの関心を示さなかった。どうも、民俗学的な興味よりも、いわば造形的な興味が強大だったように見えた。
 わたしの「造形的な興味」の内実は、石子さんとは違うところも多く、民俗学的な関心も強いが、こころの裡でうなずいた。

 さて。写真は、北杜市大泉町下井出の丸石神である。いまのところ、うちの山荘から一番近い丸石神だ。以前村役場で入手した『おおいずみむら文化財地図』(大泉村教育委員会)の記載から見つけたものである。加工した石で、近世末のものと思われ、汚れ(苔?)が地球儀の大陸のように見える。そして、こうした方形の石の上に乗った整った丸石神は、火輪から上を欠いた「二輪塔」とも言えるかたちであることをあらためて思う。前に五輪塔の水輪の再利用としての丸石神という推測も書いたが、再利用でなくても、このような加工された丸石神は、五輪塔をつくっている石工と同じ手による可能性が高いはずだ。期せずしてなのか、天円地方(天は円く、地は方形)という風水の象徴性に合致しているのも面白い。

 上記の丸石神は今朝確認してきたものだが、今日は別の収穫もあった。昼休み、仕事先である野辺山宇宙電波観測所の図書室に『南牧村の石造文化財』(南牧村教育委員会)なる本を見つけ(前に見たような気がしていた)、一覧した。南牧(みなみまき)村は、山梨県に接するが、長野県である。かなり徹底して石造物を調査した写真満載の資料集なのだが、ざっと見た限り、丸石神と言えるものはひとつもなかった。丸石神のある北杜市高根町に接し、分水嶺でみれば太平洋側、すなわち甲州側にある平沢地区にもないのだ。道祖神において、信濃と甲斐の違いは大きいということを再認識した。

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