岡本太郎の折り紙評とお墓の話 ― 2007/10/18 12:57
同じ遊びでも、たとえば折紙にはそのような感じはない。はじまりと終りの秩序がきまっている。平たい紙から順序を追って進み、「型」に到達すれば終りだ。すでに予測されている。これは運命ではない。なお、ここでの「運命」は、先の読めないものといった意味で使われている。
短い文の中にもつっこみたいところは多々あるが、それはおく。わたしは国際あやとり協会ともすこしだけ縁があるので、あやとりに対する過剰とも言える観念の投影にも思うところはあるが、それもおく。まあ、過剰なのは「岡本太郎」なんだから当たり前である。
以上、さまざま留保したが、太郎氏の指摘が、折り紙(すくなくとも一般的にイメージされている折り紙)の弱点、つまり、「お手本があって、きれいにできました。それで?」という面をついているのはたしかなのである。幼児教育界において、かつて「模倣性の助長」というレッテルが貼られたのも同じような理由だ。
反論として、折り紙の創造性を主張することもできる。しかし、ここでは、むしろ「型」にこそ大きな意味があることを言いたい。折り紙は、「型」にこそ「呪力」があるのかもしれない。「かもしれない」というより、わたしはそうだと思っている。さまざまなものを拭い去れば、情緒を排した剥き出しの図形の不思議にこそ、わたしにとっての折り紙の核心がある。いま、わたしの念頭にあるのは広義の幾何学である。数学の一分野の幾何学とはすこし違っていて、本能的な幾何の感覚とでも呼ぶべきものだ。それが、直接に「かわいさ」と結びついてしまったりするところが、折り紙の味である。
太郎氏の目は折り紙の上を通り過ぎたかっこうで、残念だが、氏の著述は、真剣で、意外性があり、刺激的で、先見性もきわめて高く、面白い。
なお、写真は岡本太郎氏の「墓石」である。我が家から近い多磨霊園にあり、何年か前に撮ったものだ。墓巡りは、展墓(てんぼ)とか掃苔(そうたい)といって、散歩の一大ジャンルのひとつになっている。わたしは、自家の墓参りもめったにしない不孝者だが、たまに展墓・掃苔をする。墓石は、変なかたちのものもあり、石の家紋帖でもあり、妙な図形や文字が刻まれていることもある。墓地は「かたち散歩」のフィールドとしても、豊かな場所なのである。静かなので、考えごとをするのにもよい。
多磨霊園の有名人の墓で、かたちが面白かったのは北原白秋(コンクリートの円墳?)、探すのがたいへんだったのが江戸川乱歩(平井太郎)、いろいろ考えたのは、朝永振一郎博士(仁科芳雄博士の墓のおまけのように「朝永振一郎 師とともに眠る」と、小さな墓石がある)である。
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